犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

姜尚中著 『悩む力』

2008-10-12 23:25:54 | 読書感想文
p.149~157より

大それた事件を起こしてしまった犯人も救われません。しかし、子供を奪われた家族のほうはもっと救われません。なぜなら、被害者にとって、それは戦争や疫病で命を取られるのと同じような「不条理」であり、なぜ自分の子供が死なねばならなかったのか、その意味を見出すことは絶対にできないからです。言わば、「意味の彼岸」ができてしまうのです。

精神医学者で思想家のV・E・フランクルは、人は相当の苦悩に耐える力を持っているが、意味の喪失には耐えられないといった趣旨のことを述べています。人は自分の人生に起こる出来事の意味を理解することによって生きています。むろん、いちいちの意味を常に考えているわけではなく、意味を確信しているゆえに理解が無意識化されていることもあります。が、いずれにせよ、それが人にとっての生きる「力」になっています。だから、意味を確信できないと、人は絶望的になります。

V・E・フランクルは第2次世界大戦中、アウシュビッツなどの強制収容所に収容され、ある男性と知り合ったのですが、年齢も上で体力も劣るフランクルは生き残り、強健で年も若い彼は死にました。フランクルは過酷な扱いを受けながらも望みを捨てず、この状況を生きぬいて、「人間的に悩みたい」と願いつづけていたそうです。でも、その男性はあきらめてしまったのです。生きることの意味を確信しているかどうかで、人間の生命力は絶対的に変わってくるのです。

いまの社会では、否応なく世の中から見捨てられた気分で孤立している人も少なくないと思います。そうした人たちだけではありません。おそらく、活動的に仕事をし、懸命に自己実現を果たそうとしている人の中にも、空虚なものが広がっているのではないでしょうか。たぶん、お金や学歴、地位や仕事上の成功といったものは、最終的には人が生きる力にはなりきれないのでしょう。では、力になるものとは何なのかと問うていくと、それは、究極的には個人の内面の充足、すなわち自我、心の問題に帰結すると思うのです。


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近代以前、人間の実存的な悩みは、すべて宗教が解決してくれていた。自分はなぜ生まれてきたのか、自分の人生はなぜ苦しみばかりなのか、なぜ自分は不幸なのか、自分はなぜ死ななければならないのか。これらの問いの答えは、すべて信仰が解決してくれていた。ここで近代合理主義は、迷信から脱却して、人間の理性を発見し、人間それ自身に尊厳を見出したはずであった。そして人間の理性は、自由の概念と結びついて、間違いなく人間自身を幸福にし、この世から悩みを払拭するはずであった。ところが、自由という概念は、不自由であったからこそ見えていた逆説的な概念であった。自由を手に入れたことによって、人間はより深い実存的な悩みに直面することになる。

姜尚中氏は当世の政治学の第一人者であるが、この本は非常に当たり前のことが当たり前に書かれている。どの書店でもランキング上位に位置し、マスコミで広く取り上げられているのもうなずける。自我が肥大すればするほど、自分と他者との折り合いがつかなくなる(他者とは他者にとっての自分だから)。自分自身と徹底抗戦しながら生きていくしかない(自分は他人の人生を生きることはできないから)。生きることの意味を確信しているか否かによって人間の生命力は変わってくる(人間は死ぬまでは生きるしかないから)。悩んでいるのは自分だけでない(人間の数だけその人にとっての自分がいるから)。偉大な文豪も悩んでいた(悩んでいなければ文豪になっていないから)。悩みからの突破口は真面目さにある(偽りの人生を生きれば自分を見失うから)。どれもこれも、当たり前なことばかりである。