犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『毒にも薬にもなる話』

2008-10-08 22:04:43 | 読書感想文
★「専門家にとっての現実」より (1996年9月の文章)

大蔵省のエリートが次官になってやめれば、10億は稼げる。それが大蔵省が若い学生を勧誘するときのことばだという。還暦近くなって、そんなお金を持ってどうするのだろうか。他人の百倍、千倍のお金を持ったところで、それに比例してものが食べられるわけではない。糖尿か痛風になるだけだろう。大きな家を買うのかもしれないが、それならそれで掃除が大変であろう。(p.53)

結論: 大蔵省が財務省になっても変わらないのは、中の人間が替わっているからである。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★「服務規程」より (1997年3月の文章)

情報とは、相手に与えず、自分が手に入れるほうが有利なものと相場が決まっている。そうした有利さを計算しないで、単に発信をいっているなら、どこまで本気かと私は思う。官僚バッシングにも似た面がある。そろそろ自分の利害を、もっと冷たく考えてみたらどうだろうか。悪口を言われて一生懸命働く人が、世界にどのくらいいるだろうか。(p.99)

結論: 社会保険庁への批判は、さらなる職務過誤と不祥事を呼ぶ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★「マネーゲーム」より (1995年5月の文章)

金は集まるが、使いようがない。だから、投機市場に集中する。それがマネーゲームらしい。働いて金をもらうのは、経済を勉強しなくても、まあ理解できる。投機というのが、わからない。特に為替はいけない。円とドルがシーソーゲームをやっている。そこで金をやったりとったりして、どういう意味があるのか。意味がないから、ゲームというのであろう。(p.151)

結論: 為替相場の変動に大騒ぎしているということに関しては、10年前と何も変動していない。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★「良き未来」より (1995年12月の文章)

未来を背負うべき子どもたちは、実に多くの知識を持っている。しかし、実際的な建設的な知恵はひょっとすると皆無に等しいかもしれない。われわれは多くの知識を蓄積してきたが、それを頭に入れるだけで一生が過ぎてしまう。得た知識を利用している暇すらないように見える。いってみればそれは完全に後ろを向いているということである。(p.165)

結論: 同じ本を何度も何度も読むような人間は、新刊の売り上げに貢献していないので、日本経済にとって好ましくない存在である。