犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ディベートとダイアローグ

2008-10-18 14:34:14 | 国家・政治・刑罰
国会は国権の最高機関であり、唯一の立法機関である(憲法41条)。そこは、民主主義社会における最高のディベートの場である。しかしながら、国会の風景といえば、今も昔も野次と居眠りと私語である。ディベート(debate)、ディスカッション(discussion)、プレゼンテーション(presentation)という単語は、日本でも非常によく聞かれる。それぞれ「討論」「討議」「説明」の意である。国際化時代を迎えて、最近では教育界にディベートへの関心が広がり、ディベートに授業を取り入れようという動きも活発になってきた。個人の価値観が多様化してきた現代社会、グローバル国際化社会においては、日本的な以心伝心では到底通用せず、ディベートのスキルを磨かなければ生き残れないといった言説も多い。ディベートの効用としては、客観的・批判的・多角的な視点が身に付く、論理だった思考ができるようになる、自分の考えを筋道立てて人前で堂々と主張できるようになる、情報収集・整理・処理能力が身に付く、コミュニケーション能力が向上するといった諸点が挙げられている。

これに対して、ダイアローグ(dialogue)という概念がある。これは、「対話」「問答」「会話」の意であり、ソクラテスとプラトンが実行していた哲学の王道として知られている。ダイアローグは、表面上は他者との間での問答の形式を採っているが、その他者も自我である事実が相互に共有されているため、自分一人で行われる内なる思考の実践と変わることがない。自分すなわち世界が存在することの謎、すなわち本当のことを知りたいという動機を同じくする限り、これは1人で考えても複数で考えても同じだからである。ここにおいては、自分において発せられた言葉か、他者において発せられた言葉かということは、ほとんど意味を持たない。自己は他者であり、他者は自己であり、これが自己と他者において同時に実現しているからである。ここでは、野次が飛ぶこともなく、私語や居眠りをしていることはあり得ない。

ディベートは、自分の意見が正しいことを前提としている。すなわち、相手に対して決してあきらめないという強い心構えで臨み、腹をくくって堂々と主張しなければならない。これに対して、ダイアローグは、「正しいという語が正しいという意味を表していること」を前提としている。すなわち、自分の意見が正しいことは前提としていない。また、ディベートは自分が「わかっている」ことを前提としているが、ダイアローグは自分が「わかっていない」ことを前提としている。近代的自我が確立された社会においては、自分が自分であることは疑いがないため、ディベートの方式が社会の隅々まで行き渡り、ダイアローグの方式は社会にそぐわなくなった。そして、議論は相手を言い負かすために仕掛けられるものとなる。これは、独善同士が「お前は独善だ」と我を張り合っている状態であり、技術論ばかりが細かくなってなかなか勝負がつかない。

裁判員制度の開始が迫ってきたが、裁判はディベートの典型である。弁論術に長けた者同士が、公平な立場の裁判官の前で勝ち負けを競う、これは一般的には紛争の解決に相応しい方式である。悪徳商法の損害賠償請求の裁判において、詐欺になるか、出資法違反になるかを争う際には、ディベートの方式は有用である。これに対して、医療過誤、交通死亡事故、労働災害などにおける損害賠償訴訟においては、この方式をされてはたまらない。原告側は、何もお金が欲しいのではなく、誠意を見せてほしい。そして真実が知りたい。このような要求に対しては、被告側も本来はダイアローグで応えるしかない。ところが、どんなに原告側が生命の重さを提示しても、被告側は示談交渉を駆け引きとして捉えようとする。そして、このような駆け引きはビジネスの1つとなり、被告側は交渉で勝つことを目的とし、攻めに転じるか守りの交渉をするかの機を見極め、いかに「手ごわい相手だ」と思わせるかに腐心し、常に戦う姿勢を示し続けることになる。そして原告側は、被告側のあまりの誠意のなさにがっかりし、さらに心を傷つけられる。これはディベートの非常に悪い側面である。

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