犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

時間は未来から過去へ流れる

2008-10-15 23:46:52 | 時間・生死・人生
一般的に、時間は過去から未来に流れるものと考えられている。「今日」という日は、確かに10月14日から15日、16日へと流れており、「現在」という時は確かに過去から未来へと移っている。これが一般にいうところの時の流れである。しかしながら、例えば12月25日という特定の日を基準に考えてみると、時の流れは全く逆流してしまう。12月25日は、毎日刻一刻と「今日」に向かって近づいてきている。これを流れという概念で捉えるならば、時間は確かに未来から過去へと流れている。「明日」という日は、次の日には「今日」となり、その次の日には「昨日」となり、以下永久に「今日」から遠ざかってゆく。

時間は過去から未来に流れるのか。それとも未来から過去へ流れるのか。これは、時間の中に自分自身の存在を置いてみるか否かによって異なってくる。時間の中に自分自身を置かないならば、時間は一般的に考えられているように、過去から未来へと流れてゆく。これは一般的に言われる「客観的な視点」であるが、自分を除いた世界を客観的に捉えている点において、存在論的な不徹底さがある。日本史においては、鎌倉時代の次は室町時代、その後は安土桃山時代から江戸時代に決まっており、時間は見事に過去から未来に流れている。しかしながら、自分が生まれる前の世界には、客観的な視点を可能にするための主観的な視点が存在していない。ここを置き去りにしたまま歴史の教訓を論じても仕方がない道理である。

自分を除いた世界を客観的に捉えることは簡単であるが、自分を含めた世界を客観的に捉えることは難しい。そして、この難しい地点に立ってみると、自分自身の存在は時間の中に置かれ、時間は未来から過去へと逆流するようになる。我々は気づかないうちに、この2つの時制を混在させている。「先」と「後」は一般的には対義語として使われているが、「先送り」と「後回し」は同じ意味である。これは、我々が「先」や「前」といった単語に2つの意味を持たせていることに基づく。自分自身の存在を時間の外に立たせた場合には、時間は過去から未来に流れるため、「前の出来事」とは過去に終わった出来事を指すことになる。これに対して、自分自身の存在を時間の中に置いてみると、まさに自分の人生の「前」に未知の出来事が待ち受けていることがわかる。この「前」とは、過去ではなく未来である。

「時の流れによって悲しみが癒される」という表現がある。時間の外に立ってみれば、その悲しい出来事は、単に風化するだけの話となる。時間は過去から未来に流れる以上、人間はいつまでも古いことに捕らわれている暇はない。そして、人間はいずれ悲しみから立ち直るものである以上、いつまでも立ち直れないのは間違っている。自分を除いた世界を客観的に捉えてしまえば、どうしても存在論的な不徹底さによって、このような安易な結論に至ってしまう。しかしながら、人間はどんなに悲しい出来事であっても、それを語り継ぎたい、風化させてはならないと決意する。これが人間の時間性である。人間は時間の中にしか生きることができない以上、自分を除いた客観的な世界の存在は錯覚である。この点において、「時の流れによって悲しみが深くなる」という表現のほうが、人間の真実の姿を示している。

「今日という日は、昨日亡くなった人が痛切に生きたいと願った一日である。」

映画 『アキレスと亀』

2008-10-13 23:42:29 | その他
画家にしても、音楽家にしても、天才は孤独である。これは、世間に理解される・されない以前の問題である。表現者であれば自分の世界を表現しなければならず、それ以前に自分の世界を表現するしかない。これは、他人の世界は表現できないという論理的可能性を心底まで知り抜いているという単純な事実に基づく。従って、天才が何かを表現するならば、それは他者に認められるか否かとは全く関係のない話となり、むしろ他者に認めてもらうための表現は邪道となる。論理的にはこれで完結している。しかしながら、表現とは他方で、その内に必然的に他者の存在を前提とする。ここに芸術家の破滅が始まる。

芸術家が芸術家として生きていくためには、資本主義社会においてはその作品が世間で評価され、値段が付けられなければならない。これは、芸術家にとっての最大のパラドックスである。自分の作品を自分以外に誰も評価してくれないならば、飢え死にしないためには、嫌でも全く関係のない仕事をして食いつながなければならない。これは、芸術家にとって最大の苦悩であり、屈辱である。「アフリカの飢えた子供の前に、おにぎりとピカソを置いてみろ。間違えなく、おにぎりをとるだろ?」。映画の中で出てきたこの台詞は、若き画家を瞬間的に絶望に追い込んだ。

天才が孤高でありつつ同時に他者の承認を求めざるを得ないのは、自らが天才である以上は自分の表現した世界が普遍的であり、一般的に反転するはずだからである。これも論理の要請である。自分の作品は世間に承認されないわけがないし、売れないわけがない。そして、人々がこの天才の前にひれ伏さないわけがない。これが、自らの才能に賭ける者における当然のスタートラインである。従って、実際に世の中がそうならなかったときの挫折感は、孤独にして宇宙大に等しい。どんなに世の中は間違っている、大衆は馬鹿だ、時代が自分に追いついていないと叫んだところで、その声は自分を破滅させる力として作用してしまう。

アキレスと亀のパラドックスは、時間と空間を固定すれば簡単に解けるが、「いま」「ここ」の唯一性に気づいてしまえば絶対に解けない。これは自己と他者との間における独我論の反転の問題と同じである。どんなに絵画の才能があっても、世の中の流行に合わなければ売れない。すべては運である。そして、絵が売れなければ、その画家に才能があったのか否かもわからず、「才能がある」という意味すらも確定できない。ここにおいて、この映画の主人公は、絵が売れなかったことによってアキレスと亀のパラドックスを解いた。この映画は、北野武監督がアーティストとしての自分を投影したという「三部作」の完結編であり、ヴェネチア国際映画祭では「白い杖賞」を受賞したが、日本での興行成績は今一つとのことである。

姜尚中著 『悩む力』

2008-10-12 23:25:54 | 読書感想文
p.149~157より

大それた事件を起こしてしまった犯人も救われません。しかし、子供を奪われた家族のほうはもっと救われません。なぜなら、被害者にとって、それは戦争や疫病で命を取られるのと同じような「不条理」であり、なぜ自分の子供が死なねばならなかったのか、その意味を見出すことは絶対にできないからです。言わば、「意味の彼岸」ができてしまうのです。

精神医学者で思想家のV・E・フランクルは、人は相当の苦悩に耐える力を持っているが、意味の喪失には耐えられないといった趣旨のことを述べています。人は自分の人生に起こる出来事の意味を理解することによって生きています。むろん、いちいちの意味を常に考えているわけではなく、意味を確信しているゆえに理解が無意識化されていることもあります。が、いずれにせよ、それが人にとっての生きる「力」になっています。だから、意味を確信できないと、人は絶望的になります。

V・E・フランクルは第2次世界大戦中、アウシュビッツなどの強制収容所に収容され、ある男性と知り合ったのですが、年齢も上で体力も劣るフランクルは生き残り、強健で年も若い彼は死にました。フランクルは過酷な扱いを受けながらも望みを捨てず、この状況を生きぬいて、「人間的に悩みたい」と願いつづけていたそうです。でも、その男性はあきらめてしまったのです。生きることの意味を確信しているかどうかで、人間の生命力は絶対的に変わってくるのです。

いまの社会では、否応なく世の中から見捨てられた気分で孤立している人も少なくないと思います。そうした人たちだけではありません。おそらく、活動的に仕事をし、懸命に自己実現を果たそうとしている人の中にも、空虚なものが広がっているのではないでしょうか。たぶん、お金や学歴、地位や仕事上の成功といったものは、最終的には人が生きる力にはなりきれないのでしょう。では、力になるものとは何なのかと問うていくと、それは、究極的には個人の内面の充足、すなわち自我、心の問題に帰結すると思うのです。


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近代以前、人間の実存的な悩みは、すべて宗教が解決してくれていた。自分はなぜ生まれてきたのか、自分の人生はなぜ苦しみばかりなのか、なぜ自分は不幸なのか、自分はなぜ死ななければならないのか。これらの問いの答えは、すべて信仰が解決してくれていた。ここで近代合理主義は、迷信から脱却して、人間の理性を発見し、人間それ自身に尊厳を見出したはずであった。そして人間の理性は、自由の概念と結びついて、間違いなく人間自身を幸福にし、この世から悩みを払拭するはずであった。ところが、自由という概念は、不自由であったからこそ見えていた逆説的な概念であった。自由を手に入れたことによって、人間はより深い実存的な悩みに直面することになる。

姜尚中氏は当世の政治学の第一人者であるが、この本は非常に当たり前のことが当たり前に書かれている。どの書店でもランキング上位に位置し、マスコミで広く取り上げられているのもうなずける。自我が肥大すればするほど、自分と他者との折り合いがつかなくなる(他者とは他者にとっての自分だから)。自分自身と徹底抗戦しながら生きていくしかない(自分は他人の人生を生きることはできないから)。生きることの意味を確信しているか否かによって人間の生命力は変わってくる(人間は死ぬまでは生きるしかないから)。悩んでいるのは自分だけでない(人間の数だけその人にとっての自分がいるから)。偉大な文豪も悩んでいた(悩んでいなければ文豪になっていないから)。悩みからの突破口は真面目さにある(偽りの人生を生きれば自分を見失うから)。どれもこれも、当たり前なことばかりである。

映画 『おくりびと』

2008-10-11 22:42:59 | その他
「死とは『門』なんです。ですから、私は門番なんです。私はここで沢山の人を見送ってきました。死という『門』をくぐって行く、だから『行ってらっしゃい』と送り出すんです。お疲れ様、また会おうって」。これは、笹野高史さん演じる火葬場の職員の名台詞である。思わず「哲学は大学ではなく火葬場で起きている」と言いたくなる。死は終わりではない、新たな旅立ちの門出であるといった凡庸なコピーであれば、今の世の中には十分にあふれている。これらのコピーは、死を直視せずに遠ざけ、「門」という言葉をこの世からあの世への境界という意味でしか理解していない。これに対して、笹野さん演じる職員は、人が死ぬことは当たり前のことであるという大前提に立ち、生きている人には必ず死が訪れるという現実において「門」という言葉を使用している。誰しも生まれてしまった限り、死という「門」に向かって歩いていざるを得ない。この現実を直視することによって、初めて死者の尊厳という言葉の正確な意味がわかってくる。

死は悲しいものである。他方で、死体は恐ろしいものである。人が死ぬとはどのようなことか。なぜ人は死ななければならないのか。仮に死体の恐ろしさが、生理的な不気味さのみで説明のつくものであるならば、火葬は一刻も早く行われるべき行為として望まれなければならないはずである。しかしながら、遺された者は、なぜか棺の蓋を永遠に閉めたくない、ずっと遺体の顔を見ていたいとの思いに駆られる。死の瞬間よりも、火葬場の炉が棺を吸い込み、扉が閉まった瞬間の記憶が遺された者を激しく揺さぶる。今まで生きていた者が、すでにそこに死んでいる。生きている者がこの現実に直面して当惑するのは、この意味が理解できないからである。どんなに生物学的には肉体が動かなくなっても、物理的な肉体がそこに存在する限り、死はそこに存在しない。葬儀とは、この理解できない死を理解するための社会的けじめである。ゆえに、心のこもっていない形式的な儀式ほど虚しいものはない。

すでに亡くなってしまった人の遺体は、現在の日本の法律の下では、数日後には確実に灰になっている。経済効率という視点で考えるならば、遺体を整え、衣装を着せて棺に納める納棺師という仕事は、全く説明がつかない。遺族の相続財産も減るだけである。それにもかかわらず、生きて死ぬべき人間は、遺体を丁重に扱わなければならないという生命倫理を保有する。さらには、遺体を丁重に扱いたいという心底からの欲求を保有する。それは、遺体が未来の自分の姿だからである。人生が生と死に挟まれた短い期間に存在するものである限り、論理の必然によって、死を大切にしなければ生を大切にすることもできない。納棺師の温かい所作によって、遺体は明らかに美しい存在へと変わってゆく。生気を失って土色になっていた顔は、まるで眠っているかのような、安らかな顔に変わる。それに伴って、遺族の間からも怖さが消えて、愛情や感謝の念が込み上げてくる。生あっての死、死あっての生、この形而上的な真実は、心のこもった儀式によって確実に具体化されている。

主演の本木雅弘さんは、納棺師という仕事に十数年前に出会い、ずっとテーマとして温めてきたのだと語っている。すなわち、本木さんは詩人の青木新門氏の著書『納棺夫日記』で納棺の世界を知り、日本における納棺の儀式に惹かれ、映画関係者に紹介したことから今回の映画化が実現したとのことである。それにしても、地味な仕事、日の当たらない仕事として敬遠されるばかりか、ともすれば卑しい仕事として嫌悪される納棺師を、崇高な仕事に就いていることへの誇りという面から描き切った監督・脚本家の力には驚かされる。死を正面から扱ったこの映画が圧倒的な評判を呼んでいるのは、自らの未来の姿である死体は客体化・対象化が不可能であり、死を遠ざけることによっては美化が不可能であることによるものである。映画の中で、広末涼子さん演じる主人公の妻が、夫の仕事の中身を知って「汚らわしい! 触らないで!」と叫ぶ場面がある。この言葉は、お葬式をビジネス的にのみ行い、戒名とお布施の話ばかりしている人にこそ妥当する。

恨みと逆恨み

2008-10-10 22:46:29 | 国家・政治・刑罰
被害者の裁判参加制度と裁判員制度が、ほぼ同時期に始まることになった。家族を殺された被害者の裁判参加を懸念する意見の論拠として、2つの理由が挙げられている。1つは、「遺族の恨みや報復感情が法廷にストレートに出てしまい、冷静であるべき法廷が荒れてしまう」。もう1つは、「被告人が遺族を逆恨みし、遺族に対して報復をする恐れがあり、遺族はかえって傷ついてしまう」。裁判参加の反対論においては、この2つの理屈は両立している。もとより社会科学においては、この種の「根拠→主張」の並列は、技術的に多く用いられている。要件事実論における仮定的抗弁のようなものである。しかし、このような並列は、端的な背理である。この背理の原因は、被害者の家族の側は「恨み」であり、被告人の側は「逆恨み」であるという点にある。

人間の直観的な文法は、論理に瞬間的にベクトルをつける。「効果」と「逆効果」。「キレる」と「逆ギレ」。「恨み」と「逆恨み」。こちらが恨みたいのを我慢しているのに、逆に向こうから恨まれた。このような不条理があってよいものか。何がどう逆なのか、後で説明しようとすれば、なかなか難しい。しかし、人間の直観は、小難しい理屈よりも先に答えを出している。論理の筋としてはこうなるはずなのに、実際にはその筋が曲げられていると感じたとき、人間は正当にも「逆」の語を所有する。弁証法的には、「正」と「反」は「合」に止揚しているはずであるが、「反」にとどまる限り、それは論理に逆らっている。あえて哲学の専門用語を使う必要もない。「上手く言えないけれども筋が通らない」、そう思えてしまうのであれば、確かに筋は通っていないからである。

被害者の家族の裁判参加に反対する意見の論拠として、「遺族の恨みや報復感情が法廷に持ち込まれる」という理由と、「被告人が遺族に逆恨みや報復をすれば遺族は傷つく」という理由が並列されることは、端的に筋が通らない。一方では、遺族が犯人を恨むことは当然であるが、それは抑えるべきであるとの価値判断がある。他方では、犯人が遺族を逆恨みすることは本末転倒であるが、それを抑えることはできないとの価値判断がある。両者は、見事に逆を行っている。遺族は恨みを抑えるべきであるから、遺族は法廷に来てはならない。また、犯人は逆恨みを抑えることはできないから、やはり遺族は法廷に来てはならない。筋の通った恨みは抑えられ、筋の通らない逆恨みは認められる。従って、筋が通らない。人間の直観的な文法は、瞬間的にこのようなベクトルをつけるはずである。このベクトルがなければ、そもそも「恨み」と「逆恨み」の区別がつけられないからである。

犯罪被害者の二次的被害については色々と論じられているが、犯人による逆恨みも二次的被害の典型である。これを抑えるのは、あくまでも「犯人が逆恨みをしないこと」であって、「遺された家族が犯人の逆恨みから逃げ回ること」ではない。後者では、二次的被害がさらに拡大してしまう。もっとも、現実に家族が裁判参加をする際に、逆恨みを恐れるのは当然のことである。そこで、意見陳述においては、「この意見陳述によって逆恨みされることを恐れていること」それ自体を述べればよい。「私としてはもちろん重い刑を科してほしい。しかし、逆恨みが怖くてここでは言えない。心の中では被告人を恨んでいるが、被告人の前では怖くて恨んでいると言えない。法廷に来るのも怖かった。悩んだ。逡巡した。しかし、今日法廷に来なければ、一生後悔すると思った。だから、今私はここにいる」。このような逆説は、裁判官には通じにくいが、裁判員には通じやすいはずである。

養老孟司著 『毒にも薬にもなる話』

2008-10-08 22:04:43 | 読書感想文
★「専門家にとっての現実」より (1996年9月の文章)

大蔵省のエリートが次官になってやめれば、10億は稼げる。それが大蔵省が若い学生を勧誘するときのことばだという。還暦近くなって、そんなお金を持ってどうするのだろうか。他人の百倍、千倍のお金を持ったところで、それに比例してものが食べられるわけではない。糖尿か痛風になるだけだろう。大きな家を買うのかもしれないが、それならそれで掃除が大変であろう。(p.53)

結論: 大蔵省が財務省になっても変わらないのは、中の人間が替わっているからである。


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★「服務規程」より (1997年3月の文章)

情報とは、相手に与えず、自分が手に入れるほうが有利なものと相場が決まっている。そうした有利さを計算しないで、単に発信をいっているなら、どこまで本気かと私は思う。官僚バッシングにも似た面がある。そろそろ自分の利害を、もっと冷たく考えてみたらどうだろうか。悪口を言われて一生懸命働く人が、世界にどのくらいいるだろうか。(p.99)

結論: 社会保険庁への批判は、さらなる職務過誤と不祥事を呼ぶ。


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★「マネーゲーム」より (1995年5月の文章)

金は集まるが、使いようがない。だから、投機市場に集中する。それがマネーゲームらしい。働いて金をもらうのは、経済を勉強しなくても、まあ理解できる。投機というのが、わからない。特に為替はいけない。円とドルがシーソーゲームをやっている。そこで金をやったりとったりして、どういう意味があるのか。意味がないから、ゲームというのであろう。(p.151)

結論: 為替相場の変動に大騒ぎしているということに関しては、10年前と何も変動していない。


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★「良き未来」より (1995年12月の文章)

未来を背負うべき子どもたちは、実に多くの知識を持っている。しかし、実際的な建設的な知恵はひょっとすると皆無に等しいかもしれない。われわれは多くの知識を蓄積してきたが、それを頭に入れるだけで一生が過ぎてしまう。得た知識を利用している暇すらないように見える。いってみればそれは完全に後ろを向いているということである。(p.165)

結論: 同じ本を何度も何度も読むような人間は、新刊の売り上げに貢献していないので、日本経済にとって好ましくない存在である。

「行ってらっしゃい」「行ってきます」

2008-10-07 23:14:26 | 時間・生死・人生
明日の生命が保障された人はいない。それどころか、10分後の生命が確実である人もいない。いつ誰がどんな事故に遭うか、いつ誰がどんな事件に巻き込まれるか、どの瞬間に天災が起きるか、そんなことは誰にもわからない。一寸先は闇である。従って、この真実は公の場所からは遠ざけられる。この真実を身をもって経験したことがない人には、経験した人のことがわからない。それと同じように、この真実を身をもって経験してしまった人には、未だ経験したことがない人のことがわからない。いつ何があるかわからないがゆえに、日常に生きる人々は、それを考えないようにしている。これは逆から言えば、いつ何があるかわからないことを心のどこかで知っていることを意味する。

我々は出かけるときに、家族に向かって無意識に「行ってきます」と言う。そして、見送る側も無意識に「行ってらっしゃい」と言う。もちろん、世の中の可能性としては再び帰ってくる確率のほうが圧倒的に高いが、それが100パーセントになることはあり得ない。その確率が100パーセントになるのは、「帰ってきた」という過去形で語るときのみである。そして、「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合った人は、「ただいま」「お帰りなさい」と言い合う瞬間を待ち続ける。これに理屈などない。反射的かつ自然に出る言葉は、事後的な解釈を超越している。この感覚は、携帯電話の普及していなかった数年前から比べれば衰えているものの、人間がこの言葉を失うことはない。

人間が「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合う限り、それが今生の別れになる可能性が必然的につきまとう。これは、事故や事件が多発しているという確率の問題ではない。人間はこのようにしか存在できないという形而上的な存在論の問題である。「絶対に再び会える」ということはあり得ない。誰もが心の底でわかっている。従って、誰もがそのことを忘れたふりをする。忘れたふりをするのは、忘れていない証拠である。もし今生の別れが喧嘩別れであったならば、一生後悔し続けることになる。後悔をするのは、自分かも知れないし、相手かも知れない。それゆえに我々は、決まりごとではなく、自発的に「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合う。その限りにおいて、我々はその瞬間が今生の別れになる可能性を知っている。

死は誰にとっても先のことではない。時間が流れるものである限り、今の瞬間は絶えず死に続けて過去となる。瞬間の死は瞬間の生である。そして、瞬間の出会いは瞬間の別れである。それが永遠の別れにならなかったのは単なる偶然であり、単なる奇跡の連続である。人間は永遠の別れを遠ざけようとすることによって、瞬間の死を知り抜いていることを示す。「行ってらっしゃい」「気をつけてね」「早く帰ってらっしゃい」という無意識の言葉は、無意識のうちに今生の別れへの覚悟を示している。そして、「帰ってきた」という過去形で語るときには、その言葉の深さは認識されない。これに対して、「帰ってこなかった」という過去形で語るときほど、その言葉に込められた深い意味が認識されるときはない。人間は誰しもそのことをどこかで知っているがゆえに、今日も「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合う。

民主主義の小学校

2008-10-05 00:46:40 | 国家・政治・刑罰
【憲法のテキスト】

地方公共団体と言い得るためには、単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在し、沿革的に見ても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的な権能を付与された地域団体であることを必要とする(最高裁判所・昭和38年3月27日大法廷判決)。

それでは、憲法上地方自治制度が保障されているが、かかる保障の法的性質をいかに解すべきか。思うに、地方自治制度の保障によって、地方の実状にあったきめ細かな政治を実現することができる。しかも、権力を地方にまで分散すれば、中央権力の強大化防止にも役立つ。このような理由から、憲法は間接的に人権保障を行うための制度的保障として、地方自治制度を定めたと解すべきである。その地方自治制度の侵すべからざる核心を「地方自治の本旨」というものである。

そして、上記地方自治の本旨の内容は、地方自治が住民の意思に基づいて行われるという住民自治(民主主義的意義)、さらに地方自治が国から独立した団体に委ねられるとする団体自治(自由主義的意義)からなると解する。その中心は住民自治にあり、住民自治実現の担保として団体自治が保障されるという関係にあると解する。イギリスの政治学者ジェームズ・ブライスは、「地方自治は民主主義の小学校である」と述べたが、地方議会は住民にとって地方自治は最も身近な政治参加の場所であり、民主主義社会への入口である。


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【実践編】

ネットで「美人すぎる議員」として人気が爆発した青森県八戸市の藤川優里議員(28)が、11月19日にDVDと写真集を同時発売することがわかった。藤川市議は、「八戸の観光名所をPRできるのなら」との条件付きで承諾し、胸の谷間が露わな水着姿も披露している。これに対して、八戸市役所には抗議が相次いで寄せられ、藤川市議の後援会長は「もうついて行けない」として後援会の解散を明言するなどのトラブルも起きている。藤川市議は、平成19年4月の市議会議員選挙において、初立候補で、2位の3665票の倍近い6962票を獲得してトップ当選した。これは、八戸市議選史上最多得票であった。


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【憲法のテキスト】

21世紀の地方自治の前進に向けて、住民自治の発展のためには、地域社会における住民の自己決定権の尊重を基本に考えるべきである。それでは、地域社会に民主主義を根付かせるにはどうすればよいのか。それは、市民が政治の主役であるという意識を持ち、有権者としての責任を投票によって果たすことである。一人ひとりが選挙に行けば、必ず社会は変わる。政治のすべての原点は、一人ひとりの参画によるプロセスからなる民主主義なのである。

門田隆将著 『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』 第12章

2008-10-04 21:16:23 | 読書感想文
第12章 「敗北からの道」より

p.170~174より抜粋


最初から結論が決まっているのなら、審理など必要がない。いや、そもそも裁判官なんて必要ないではないか、と本村は思った。日本の司法では、少年がどんなにひどい殺し方をしても、被害者が「2人」では死刑にならないという。どんな証拠を出しても、「相場主義」には勝てないのである。本村は、日本の司法が“法の下の平等”や“裁判官の独立”という大原則を、まったく捨て去っている、と思った。職業裁判官の世界やルールにとらわれるあまり、人間個人としての良識の上に各々の裁判官が立っていないのではないか、と思ったのだ。あの黒い法衣をまとった瞬間から、真実を解明し、罪を裁くという本来の使命ではなく、裁判官として、エリートとして生き抜くことが最大の目的となり、個々の事例を詳細に検討し、新たな判断を下す勇気を失ってしまったのではないか、と思った。

40分近い判決文の朗読が終わり、閉廷した時、記者たちは、不思議な光景を見た。Fや弁護人、検察官たちが法廷から出ていったのに、重吉裁判長は、なぜか退廷しなかったのである。すすり泣く弥生の母・由利子のかたわらにいた本村は、ふと重吉裁判長の視線に気づいた。重吉は、本村をじっと見ていたのである。本村は、立ち上がった。そして、重吉に向かって深々と頭を下げた。重吉も本村に頭を下げた。それは、裁判を長く取材してきた記者たちも見たことのないシーンだった。たった1人の傍聴人に頭を下げるために、裁判長がずっと待っていた。記者たちも、そして本村本人も、重吉のその姿に裁判官というものの苦渋を見た気がした。重吉の目が、遺族に対して、この不本意な判決をわびているように思えたのだ。

記者会見に臨んだ本村は、2年前の一審判決の時とは、雰囲気がまるで変わっていた。閉廷後の重吉裁判官とのシーンを聞かれた本村はこう答えた。「裁判官も人間です。われわれ遺族の気持ちを十分わかった上で、あの判決を出されたのだと思います。おそらく何日も何日も悩まれたんだろうと思います。判決には納得していませんが、裁判官の方たちには不満はありません」。間もなく26歳になる本村は、そう落ち着いて語った。弥生と夕夏にどういう報告をするのか、と聞かれると、さすがに「結局、私は家族を守ることもできず、自分の手で仇を討つこともできなかった。そして司法にその気持ちを受け入れてもらうこともできなかった。私は、何と無力な人間だと感じています」と、涙声となった。

そして、こうきっぱりと語った。「妻と娘の命は、この判決のように軽いものではありません。被害者にとっては、加害者が成人であるか少年であるかは関係ないんです。被告は、やはり少年法に守られました。少年法、あるいは古い判例に裁判所がいつまでもしがみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れていくのが司法の役割だと私は思います」。日本の国の価値基準を決めるのは司法である。その司法の中で、重要な役割を負っている裁判官たちが、出世であったり、保身であったり、とても狭い世界の中で、自分の思いを達成しようとしているとしたら、これほど空しいことはない。正義とは何か、日本の正義の価値基準は何か。そういう大原則に、裁判官は立ち向かって欲しい。本村は、新たな加害者も新たな被害者も出さない理想社会への第一歩こそ、この裁判官の勇気から始まると信じている。裁判所は社会に対して、こういうことをすればこうなるんだ、という“正義の価値”を示して欲しかった。


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結論1: 法律の知識が増えるほど、「法律は人のためにある」という事実が忘れられる。

結論2: この社会を動かすものは、「社会を動かそう」という野心ではない。

結論3: 人は、真実の言葉を語る人を恐れる。

結論4: 真実の言葉を語る人を恐れた人は、橋下知事と弁護団の場外乱闘のほうに興味を持つ。

募金活動とマネーゲーム

2008-10-02 23:46:57 | 国家・政治・刑罰
現代社会の政治は、イデオロギーではなく経済で動いている。今や日本では、小学校から株取引を教えているらしい。そんな中で、10月1日から、昔ながらの赤い羽根の共同募金が始まった。この活動の母体は社会福祉法人中央共同募金会であり、集まったお金は老人福祉施設や障害者福祉施設などに寄贈されるとのことである。仮に国民の2人に1人、6000万人が10円ずつ寄付をすれば、合計は6億円になる。このような運動を傍目に、新聞や雑誌では桁違いの数字が踊っている。アメリカ証券大手・リーマン・ブラザーズの最終損失は、日本円で約4200億円(39億ドル)。アメリカの緊急経済安定化法案に必要なお金は、日本円で75兆円とも言われている。両者はそもそも比較する類のものではないが、情報化社会の閉塞感は、人々にこのような比較をさせてしまうところに生じている。サブプライムローンの問題が、何の関係もない日本の庶民を直撃したことは記憶に新しい。赤い羽根の共同募金は、かつてはこれほど虚しさを感じさせるものではなかった。

現代社会の特徴は、グローバリゼーションである。人類は情報通信技術の発達によって、輝かしい未来が到来するものと夢想していた。インターネットによって、誰もが国境を越えて一瞬にして世界中の情報を得ることができるようになり、経済活動は全地球規模で展開される。そして、個人の自由が拡大し、誰もが幸福になれる夢のような時代が来るものと想像していた。しかし、このようなグローバリゼーションは、桁違いのマネーゲームによって、「お金を稼ぐためにお金を稼ぐ」という自己目的化を招来した。それと同時に、資本主義社会に生きているすべての人間を巻き込んで、その人間性をねじ曲げる危険性までもたらした。今や、10円玉、100円玉の募金活動の横で、携帯電話によって一瞬にして億単位のお金が動く。ごく普通の庶民が食料品の値上げに苦しむすぐその横で、先物取引で億単位のお金を稼いだ人が笑って歩いている。

街頭の募金活動によって得られるものは、お金でありながら、お金ではない。嬉しいのはお金ではなく、お金に込められた思いである。募金をしてもらった側は、お金よりも何よりも、その気持ちが嬉しい。その嬉しい気持ちを想像して、募金した側も嬉しい。さらに、その嬉しい気持ちを想像して、募金をしてもらった側はまた嬉しい。これは見事な好循環である。拝金主義でない秩序ある資本主義の維持は、それほど大層なものでないものであることもわかる。ところが、今やこのような純粋な思いすら、嘲笑の対象となってしまった。平成17年2月のライブドアによるニッポン放送買収劇の和解によって、堀江貴文元社長がフジテレビから得た金額は1470億円であったと言われている。片や現在、ワーキングプアの月収は10万円にも満たず、アパートも借りられないため、ネットカフェで夜を明かしている。このような社会では、赤い羽根の10円玉に込められた思いにゆっくりと幸福を噛み締める余裕はない。

次の衆議院議員選挙で自民党が勝つか民主党が勝つか。これを国民生活の問題として捉えるのではなく、選挙直後の株価の変動に対する投機の問題として捉える人々がいる。書店で殺人事件が起これば、新聞の社会面ではなく、まず株価の欄を見て書店の株の取引に走る人々がいる。「個人投資家の保護」という思考パターンに慣れてしまった人は、「犯罪被害者の保護」の問題に直面しても、お金を払えば解決するという以上の発想が浮かばない。人の死に直面しても、遺族は相続争いを繰り広げるものだという認識しかない人も多い。グローバリゼーションは、人間関係を殺伐とさせ、人間の心から余裕を失わせた。成熟し切った資本主義は、人々の不安を煽って需要を生み出すしかなくなってしまった。結局、資本主義の世の中はすべてお金である。しかしながら、お金それ自体は善でも悪でもなく、幸福でも不幸でもない。募金活動の場で見られる10円玉のやり取りは、人間の心を暖かくする。これに対し、マネーゲームの場で見られる電子マネーの跳梁は、人間の猜疑心を刺激する。「神の見えざる手」は、恐らく赤い羽根の側にある。