犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「行ってらっしゃい」「行ってきます」

2008-10-07 23:14:26 | 時間・生死・人生
明日の生命が保障された人はいない。それどころか、10分後の生命が確実である人もいない。いつ誰がどんな事故に遭うか、いつ誰がどんな事件に巻き込まれるか、どの瞬間に天災が起きるか、そんなことは誰にもわからない。一寸先は闇である。従って、この真実は公の場所からは遠ざけられる。この真実を身をもって経験したことがない人には、経験した人のことがわからない。それと同じように、この真実を身をもって経験してしまった人には、未だ経験したことがない人のことがわからない。いつ何があるかわからないがゆえに、日常に生きる人々は、それを考えないようにしている。これは逆から言えば、いつ何があるかわからないことを心のどこかで知っていることを意味する。

我々は出かけるときに、家族に向かって無意識に「行ってきます」と言う。そして、見送る側も無意識に「行ってらっしゃい」と言う。もちろん、世の中の可能性としては再び帰ってくる確率のほうが圧倒的に高いが、それが100パーセントになることはあり得ない。その確率が100パーセントになるのは、「帰ってきた」という過去形で語るときのみである。そして、「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合った人は、「ただいま」「お帰りなさい」と言い合う瞬間を待ち続ける。これに理屈などない。反射的かつ自然に出る言葉は、事後的な解釈を超越している。この感覚は、携帯電話の普及していなかった数年前から比べれば衰えているものの、人間がこの言葉を失うことはない。

人間が「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合う限り、それが今生の別れになる可能性が必然的につきまとう。これは、事故や事件が多発しているという確率の問題ではない。人間はこのようにしか存在できないという形而上的な存在論の問題である。「絶対に再び会える」ということはあり得ない。誰もが心の底でわかっている。従って、誰もがそのことを忘れたふりをする。忘れたふりをするのは、忘れていない証拠である。もし今生の別れが喧嘩別れであったならば、一生後悔し続けることになる。後悔をするのは、自分かも知れないし、相手かも知れない。それゆえに我々は、決まりごとではなく、自発的に「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合う。その限りにおいて、我々はその瞬間が今生の別れになる可能性を知っている。

死は誰にとっても先のことではない。時間が流れるものである限り、今の瞬間は絶えず死に続けて過去となる。瞬間の死は瞬間の生である。そして、瞬間の出会いは瞬間の別れである。それが永遠の別れにならなかったのは単なる偶然であり、単なる奇跡の連続である。人間は永遠の別れを遠ざけようとすることによって、瞬間の死を知り抜いていることを示す。「行ってらっしゃい」「気をつけてね」「早く帰ってらっしゃい」という無意識の言葉は、無意識のうちに今生の別れへの覚悟を示している。そして、「帰ってきた」という過去形で語るときには、その言葉の深さは認識されない。これに対して、「帰ってこなかった」という過去形で語るときほど、その言葉に込められた深い意味が認識されるときはない。人間は誰しもそのことをどこかで知っているがゆえに、今日も「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言い合う。