犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

募金活動とマネーゲーム

2008-10-02 23:46:57 | 国家・政治・刑罰
現代社会の政治は、イデオロギーではなく経済で動いている。今や日本では、小学校から株取引を教えているらしい。そんな中で、10月1日から、昔ながらの赤い羽根の共同募金が始まった。この活動の母体は社会福祉法人中央共同募金会であり、集まったお金は老人福祉施設や障害者福祉施設などに寄贈されるとのことである。仮に国民の2人に1人、6000万人が10円ずつ寄付をすれば、合計は6億円になる。このような運動を傍目に、新聞や雑誌では桁違いの数字が踊っている。アメリカ証券大手・リーマン・ブラザーズの最終損失は、日本円で約4200億円(39億ドル)。アメリカの緊急経済安定化法案に必要なお金は、日本円で75兆円とも言われている。両者はそもそも比較する類のものではないが、情報化社会の閉塞感は、人々にこのような比較をさせてしまうところに生じている。サブプライムローンの問題が、何の関係もない日本の庶民を直撃したことは記憶に新しい。赤い羽根の共同募金は、かつてはこれほど虚しさを感じさせるものではなかった。

現代社会の特徴は、グローバリゼーションである。人類は情報通信技術の発達によって、輝かしい未来が到来するものと夢想していた。インターネットによって、誰もが国境を越えて一瞬にして世界中の情報を得ることができるようになり、経済活動は全地球規模で展開される。そして、個人の自由が拡大し、誰もが幸福になれる夢のような時代が来るものと想像していた。しかし、このようなグローバリゼーションは、桁違いのマネーゲームによって、「お金を稼ぐためにお金を稼ぐ」という自己目的化を招来した。それと同時に、資本主義社会に生きているすべての人間を巻き込んで、その人間性をねじ曲げる危険性までもたらした。今や、10円玉、100円玉の募金活動の横で、携帯電話によって一瞬にして億単位のお金が動く。ごく普通の庶民が食料品の値上げに苦しむすぐその横で、先物取引で億単位のお金を稼いだ人が笑って歩いている。

街頭の募金活動によって得られるものは、お金でありながら、お金ではない。嬉しいのはお金ではなく、お金に込められた思いである。募金をしてもらった側は、お金よりも何よりも、その気持ちが嬉しい。その嬉しい気持ちを想像して、募金した側も嬉しい。さらに、その嬉しい気持ちを想像して、募金をしてもらった側はまた嬉しい。これは見事な好循環である。拝金主義でない秩序ある資本主義の維持は、それほど大層なものでないものであることもわかる。ところが、今やこのような純粋な思いすら、嘲笑の対象となってしまった。平成17年2月のライブドアによるニッポン放送買収劇の和解によって、堀江貴文元社長がフジテレビから得た金額は1470億円であったと言われている。片や現在、ワーキングプアの月収は10万円にも満たず、アパートも借りられないため、ネットカフェで夜を明かしている。このような社会では、赤い羽根の10円玉に込められた思いにゆっくりと幸福を噛み締める余裕はない。

次の衆議院議員選挙で自民党が勝つか民主党が勝つか。これを国民生活の問題として捉えるのではなく、選挙直後の株価の変動に対する投機の問題として捉える人々がいる。書店で殺人事件が起これば、新聞の社会面ではなく、まず株価の欄を見て書店の株の取引に走る人々がいる。「個人投資家の保護」という思考パターンに慣れてしまった人は、「犯罪被害者の保護」の問題に直面しても、お金を払えば解決するという以上の発想が浮かばない。人の死に直面しても、遺族は相続争いを繰り広げるものだという認識しかない人も多い。グローバリゼーションは、人間関係を殺伐とさせ、人間の心から余裕を失わせた。成熟し切った資本主義は、人々の不安を煽って需要を生み出すしかなくなってしまった。結局、資本主義の世の中はすべてお金である。しかしながら、お金それ自体は善でも悪でもなく、幸福でも不幸でもない。募金活動の場で見られる10円玉のやり取りは、人間の心を暖かくする。これに対し、マネーゲームの場で見られる電子マネーの跳梁は、人間の猜疑心を刺激する。「神の見えざる手」は、恐らく赤い羽根の側にある。