犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大阪難波・個室ビデオ店放火殺人事件

2008-10-23 18:29:06 | 実存・心理・宗教
16人が死亡した大阪・難波の個室ビデオ店放火殺人事件で、大阪地検は22日、殺人と放火などの罪で小川和弘被告(46歳)を起訴した。小川被告は、逮捕時の弁解録取においては、「死にたいと思いバッグに火をつけた。人が死ぬかもしれないことはわかっていた」と供述していた。さらには、「生活保護を受けるような生活が惨めで、家族と別れて情けない。個室で死のうと決めた。ライターでティッシュに火を付け、バッグの新聞を燃やした」との具体的な供述をし、経済的困窮や家庭崩壊から自暴自棄になった自らの人生に真摯に向き合い始めていた。ところが、弁護士との接見を重ねるうちに、同被告の供述は180度変遷することになる。現在では、「火を付けた記憶もない。DVDを見て、たばこを5本くらい吸って寝た。煙と臭いで気が付いた。自殺する気はなかった。たばこの不始末しか考えられない」と主張しているという。

このような展開を辿る刑事事件は非常に多い。そして、裁判ではどのようなことが行われるのか、これも目に見えている。人間社会における哲学的な罪と罰、絶望に追い込まれた人間の実存の叫び、無差別の他者に矛先を向けたくなる自我の肥大、そして起きてしまった現実の残酷さ、このようなものは全く議論の対象にならない。警察官・検察官の面前における自白調書と、法廷における否認の供述のどちらが信用できるか、刑事訴訟法322条に関する争いを展開するのが裁判所という場である。法廷には、取調べを担当した刑事と検事が呼ばれて、弁護団と丁々発止を繰り広げる。最初の犯罪それ自体とは遠く離れて、取調べの状況が1分1秒単位で細かく争われる。この裁判においても、大阪地裁では「裁判は犯罪被害者遺族のために存在するのではない」との命題が嫌というほど実証されることになる。

小川被告の当初の自白は、実に多くの貴重な論点を提示していた。もし人間が他者の犯罪から何かを学び、何らかの社会的な意義を見出し、生産性のある議論をし、二度とこのような事件が起きないように決意するならば、これらの論点をそのまま深く掘り下げる以外に採るべき行動はない。借金やギャンブルにはまり込む人間心理、それでもお金を貸し続ける消費者金融の商法、生活保護費までギャンブルに注ぎ込む人間の弱さ。社会全体の歪みに責任を押し付けることができない自己評価の失墜と自損感情、病気で働けない自らの運命への呪詛、さらには支援施設の世話になることに基づく人間の誇りの喪失。ネットカフェや個室ビデオ店で寝泊まりを続けることによって生じる心の荒廃。16人もの命を奪った人間には、これらの論点に人生を賭けて立ち向かうべき義務がある。また、拘置所の中で労働の義務を免除され、国民の税金で衣食住を保障された被告人には、これらの論点に人生を賭けて立ち向かう権利がある。

小川被告は逮捕された当初、「これまでの人生を振り返って、このまま生きていても面白くないと思い、焼け死んでやろうと思った。自分としては1人で死ぬつもりだったが、煙で苦しくて、我慢できなくなり部屋から出てしまった」と述べていた。事件の直後、宇宙の中でたった1人で立って自分自身と向き合い、それによって他者と向き合う。自己の犯した罪と向き合い、それによって他者の蒙った被害と向き合う。小川被告は、誰に指示されるわけでもなく、確かに人間の倫理が指し示す唯一の道を自然と歩き始めていた。しかし、例によって、弁護士との接見を重ねるうちに「自分の素直な気持ち」に気付いてしまった。被疑者国選弁護制度のメリットとデメリットは色々あるが、最大のデメリットは、人間が自らの内心を深く掘り下げなくなること、それによって議論のレベルが浅くなることである。犯罪被害者遺族の救済がこの深さの中にあるとすれば、心のケアはますます難しくなる。