犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

五木寛之著 『大河の一滴』

2008-10-20 18:32:17 | 読書感想文
これはちょうど10年前の本であるが、見事に現在を予言する内容である。格差社会、ワーキングプア、ネットカフェ難民などが社会問題となり、再び憲法25条の生存権が叫ばれる状況となってきた。しかしながら、これらの主張は、社会思想ではあっても哲学にはなり得ない。あくまでも動物的な生存・生活の話であり、人間の実存・存在の話ではないからである。憲法がどんなに国民の健康で文化的な生活を保障しても、それは個人の心の悩みや、「生老病死」の問題に対しては無力である。人間の一生とは、本来、苦しみの連続である(p.18)。いつまでもルネサンス時代の人間謳歌では、必ず行き詰まる。プラス思考とは、絶望の底で光を見た人間の全身での驚きのことである(p.41)。

市場原理とは、できる限り個を無視するところから成立する発想である(p.77)。従って、中世の封建主義を脱して近代市民社会において成立した人権思想も、市民の権利という集団を尊重することにより、逆に個を無視してしまう。本来、人間は市場原理だけで暮らしているわけではなく、もっと複雑な存在である(p.69)。従って、市民の権利を尊重する人権論が、皮肉にも個の命の軽さをもたらすことになる。そして、社会全体から、命の手応えや重さ、命の尊さに対する実感が失われていくことになる。この行き着く先が、毎年毎年3万人以上の自殺者を生む現代社会である(p.92)。

科学的かつ合理的なアプローチだけで人間の心をどうこうしようという試みは、まず中途で挫折する(p.310)。民主的な近代社会は、理性を無条件に信頼し、感情を目の敵にしてきた。しかし、感情のない人間は、単に無機質なロボットである(p.144)。喜びや悲しみ、笑いに寂しさ、これらの豊かな感情は、人間が人間であるために必要な最低限の条件である。心のケア、ヒーリングに必要なものも、小手先の技術ではない。治療する側が、「自分も必ず死ぬのだ」という自覚を持つことである(p.207)。自分はやがて死すべき存在であるとの気持ちが、心の交流を生み、時には科学の常識を超えた治癒をもたらすことになる。

民主主義の思想は、自己実現と自己統治の価値を有する表現の自由をその中核に置く。しかしながら、本当の人生の悲しみや苦しい記憶を骨の髄まで抱えている人は、そのことを語らない(p.245)。静かな微笑みの間の沈黙においてこそ、多くのことが語られている。近代市民社会は、言葉を手段として万能に使いこなそうとする。しかし、言葉による表現には限界があり、語り得ぬものには沈黙しなければならない(p.248)。人間は、ただ肉体として生きるだけではなく、人間関係の中に生きている。従って、人間的な死を考えずに科学的・生理的な死のみによって死者を取り扱えば、生きている人間の命まで軽くなる(p.109)。すなわち、法律の条文が犯罪を増やすという皮肉である。