犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東京都立墨東病院・妊婦死亡事件

2008-10-28 18:17:22 | 国家・政治・刑罰
東京都内で今月4日、脳内出血を起こした妊婦(36)が8病院に受け入れを拒否されて都立墨東病院で死亡した問題では、今日まで様々な人が、それぞれの立場から意見を述べている。22日には東京都と病院が記者会見をし、「当直医は当初、脳内出血だとわからなかった。わかっていれば最初から受け入れたはずだ」と説明した。その上で、一連の判断は妥当だと主張し、医療過誤ではないとの認識を示すとともに、都内でも慢性化している深刻な医師不足の現状などを訴えた。これに対して、墨東病院に受け入れを依頼した妊婦のかかりつけ医は、脳内出血が疑われる症状を伝えていたことを強調しており、双方の食い違いが浮き彫りになっている。さらに、24日には責任の所在をめぐり、舛添要一厚労相が東京都を、石原慎太郎知事が国をそれぞれ痛烈に批判した。

政治的な対立は、立場が変われば主張が変わる。国に属する者は国自身を批判することはなく、東京都に属する者は東京都自身を批判することはない。これは、あってはならない現状を否定し、あるべき将来を実現するために、熱くなって他者に対する要求をお互いに繰り広げる行為である。これに対して、立場の変わりようがない状態に置かれた者の言葉は、実に静かである。あってはならない現状を否定することができず、あるべき将来も実現できないため、熱くなって他者に対する要求する事柄もない。ただ、恐るべき現実を強制的に受け入れさせられるのみである。これを運命、もしくは宿命と呼ぶ。思考は内へ内へと沈潜し、問いは他者ではなく自己に向かう。そして、その言葉は激しい政治的な攻撃ではなく、静かな祈りに似てくる。

27日に記者会見した妊婦の夫(36)は、時に言葉を詰まらせながら、妻の死を無駄にしないよう懸命に医療の改善への願いを語り続けた。「やりきれない気持ちでいっぱいです。なぜ、こんなに文明や医療の発展した都会で、死にそうに痛がっている人を誰も助けてくれないんだろう。もし代われるのであれば、代わってあげたい」。「おなかに赤ちゃんがいるお母さんが、安心して子供を産めるような社会になることを祈っています」。夫は、このように自らの願いを語る一方で、特定の誰かを責めることは一度もなかった。「医師や看護師は本当に良くしてくれた」。「墨東病院では、妻が死ぬ日に、妻の腕に子供を抱かせてくれました。2、30分くらいだったかもしれないが、本当に温かい配慮をしていただけた」。「病院の責任を追及したり、責めようとは思わない。ただ、事実を明らかにして現状を変えてほしい」。

現代の民主主義社会は、あまりに問題解決型の議論に慣れすぎてしまった。何は間違っている、何をどうすべきだ、このような顔を真っ赤にした政治的な主義主張である。今回の問題にしても、ひとたび「真の問題点探し」が始まるならば、元凶と名指しされた者の反論によって、事態はあっという間に泥仕合となる。そして、誰もが遺族の無念を晴らすために、死を無駄にしないために、正義を主張して悪を排除し、世の中を変えようとする。ここに言われているような正義は、恐らく妊婦の夫の「安心して子供を産めるような社会になることを祈っています」という願いとはどれも一致しない。立場が変われば主張が変わるような意見は、他人の名を借りた自分自身のための主張だからである。本来、経験者でない者が経験者のためにできることは、絶句したまま静かに寄り添って、共に涙を流すことだけである。

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