犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩田靖夫著 『いま哲学とはなにか』  第Ⅰ章「人はいかに生きるべきか」

2008-10-31 23:08:20 | 読書感想文
p.22~

「人はいかに生きるべきか」という問題は、他者といかに関わるべきか、という問題へと発展してゆく。この場合、他者との関わりは、2つの局面に分かれる。1つは、単独の、かけがえのない他者との関わり、すなわち、愛の関わりであり、他は、多数の、平等な他者との関わり、すなわち、社会における正義の関わりである。

フィリアー(愛)はアリストテレスによれば3つの成立根拠をもっている。その1つは「有益なもの」であり、もう1つは「快いもの」であり、そして、最後に「善いもの」である。利益や快楽に基づく愛は、第1に、自分自身の利益や快楽の尊重で相手自身の尊重ではないこと、第2に、そのような利益や快楽を生み出す相手の美質は安定性を欠くあまりに移ろいやすい陽炎であるという点に問題がある。それゆえ、利益と快楽に基づく愛は、本来、愛の名に値しない。これらの交わりにおいては、人は相手の人を愛しているのではなく、自分の利益や快楽を愛しているからである。それはエゴイズムの一形態なのである。

そこで、愛は、残る1つの成立根拠、すなわち「善」に基づく愛でしかありえない。なぜ、そうなのか。なぜなら、相手自身を愛するとは、相手のもつ様々な性質や能力を愛することではなく、相手の人格を愛することであり、人間の人格は善(徳)に基づいてしか成立しえないからである。どのように魅力的な性質や能力も時間の中で老化と衰弱へと運命づけられている。もしも、人と人との交わりがこれらの属性に依存していたのなら、交わりもまた早晩衰弱し消滅せざるをえないだろう。

しかし、善に基づいて形成された人間の「在り方」としての徳は、人間のもつ様々な在り方のうちで、もっとも恒常的であり、安定的であり、したがって、信頼に値する、とアリストテレスは言う(『ニコマコス倫理学』)。いったん確立された徳は、いわば時間と老化とあらゆる加害を超えて存続する人格の基礎として、生きている限り、決して滅亡することのない恒常的存在である。それゆえ、善い人と善い人の間にのみ、真の愛が成立する。自分が利益や快楽を血眼になって欲求するエゴイストであれば、決して、他者に人格として近づくことはできない。

アリストテレスのフィリアー論においては、私と他者の交わり、すなわち、私と他者との真実の愛の実現とは、私と他者との善に基づく自己同一の実現である。このことは、人間の愛が、母子愛、兄弟愛、同族愛など血のつながりに基礎をもち、そこにもっとも強固な連帯の土台をもちながら、生物的連帯の希薄な他者へと漸次拡大するという事実から、十分の説得力をもつだろう。


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結論1: 現在の日本で語られている「愛」の多くは「善」ではない。

結論2: 死者に対する「愛」は、利益や快楽に基づく愛ではありえず、必然的に「善」に基づく愛となる。従って、生きている者に対する愛よりも深い。

結論3: 被害者遺族における最大の感情は、「善」に基づく愛である。「心のケアによって厳罰感情を和らげる」というパラダイムは入口が逆である。