犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

時間は未来から過去へ流れる

2008-10-15 23:46:52 | 時間・生死・人生
一般的に、時間は過去から未来に流れるものと考えられている。「今日」という日は、確かに10月14日から15日、16日へと流れており、「現在」という時は確かに過去から未来へと移っている。これが一般にいうところの時の流れである。しかしながら、例えば12月25日という特定の日を基準に考えてみると、時の流れは全く逆流してしまう。12月25日は、毎日刻一刻と「今日」に向かって近づいてきている。これを流れという概念で捉えるならば、時間は確かに未来から過去へと流れている。「明日」という日は、次の日には「今日」となり、その次の日には「昨日」となり、以下永久に「今日」から遠ざかってゆく。

時間は過去から未来に流れるのか。それとも未来から過去へ流れるのか。これは、時間の中に自分自身の存在を置いてみるか否かによって異なってくる。時間の中に自分自身を置かないならば、時間は一般的に考えられているように、過去から未来へと流れてゆく。これは一般的に言われる「客観的な視点」であるが、自分を除いた世界を客観的に捉えている点において、存在論的な不徹底さがある。日本史においては、鎌倉時代の次は室町時代、その後は安土桃山時代から江戸時代に決まっており、時間は見事に過去から未来に流れている。しかしながら、自分が生まれる前の世界には、客観的な視点を可能にするための主観的な視点が存在していない。ここを置き去りにしたまま歴史の教訓を論じても仕方がない道理である。

自分を除いた世界を客観的に捉えることは簡単であるが、自分を含めた世界を客観的に捉えることは難しい。そして、この難しい地点に立ってみると、自分自身の存在は時間の中に置かれ、時間は未来から過去へと逆流するようになる。我々は気づかないうちに、この2つの時制を混在させている。「先」と「後」は一般的には対義語として使われているが、「先送り」と「後回し」は同じ意味である。これは、我々が「先」や「前」といった単語に2つの意味を持たせていることに基づく。自分自身の存在を時間の外に立たせた場合には、時間は過去から未来に流れるため、「前の出来事」とは過去に終わった出来事を指すことになる。これに対して、自分自身の存在を時間の中に置いてみると、まさに自分の人生の「前」に未知の出来事が待ち受けていることがわかる。この「前」とは、過去ではなく未来である。

「時の流れによって悲しみが癒される」という表現がある。時間の外に立ってみれば、その悲しい出来事は、単に風化するだけの話となる。時間は過去から未来に流れる以上、人間はいつまでも古いことに捕らわれている暇はない。そして、人間はいずれ悲しみから立ち直るものである以上、いつまでも立ち直れないのは間違っている。自分を除いた世界を客観的に捉えてしまえば、どうしても存在論的な不徹底さによって、このような安易な結論に至ってしまう。しかしながら、人間はどんなに悲しい出来事であっても、それを語り継ぎたい、風化させてはならないと決意する。これが人間の時間性である。人間は時間の中にしか生きることができない以上、自分を除いた客観的な世界の存在は錯覚である。この点において、「時の流れによって悲しみが深くなる」という表現のほうが、人間の真実の姿を示している。

「今日という日は、昨日亡くなった人が痛切に生きたいと願った一日である。」