犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

門田隆将著 『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』 第12章

2008-10-04 21:16:23 | 読書感想文
第12章 「敗北からの道」より

p.170~174より抜粋


最初から結論が決まっているのなら、審理など必要がない。いや、そもそも裁判官なんて必要ないではないか、と本村は思った。日本の司法では、少年がどんなにひどい殺し方をしても、被害者が「2人」では死刑にならないという。どんな証拠を出しても、「相場主義」には勝てないのである。本村は、日本の司法が“法の下の平等”や“裁判官の独立”という大原則を、まったく捨て去っている、と思った。職業裁判官の世界やルールにとらわれるあまり、人間個人としての良識の上に各々の裁判官が立っていないのではないか、と思ったのだ。あの黒い法衣をまとった瞬間から、真実を解明し、罪を裁くという本来の使命ではなく、裁判官として、エリートとして生き抜くことが最大の目的となり、個々の事例を詳細に検討し、新たな判断を下す勇気を失ってしまったのではないか、と思った。

40分近い判決文の朗読が終わり、閉廷した時、記者たちは、不思議な光景を見た。Fや弁護人、検察官たちが法廷から出ていったのに、重吉裁判長は、なぜか退廷しなかったのである。すすり泣く弥生の母・由利子のかたわらにいた本村は、ふと重吉裁判長の視線に気づいた。重吉は、本村をじっと見ていたのである。本村は、立ち上がった。そして、重吉に向かって深々と頭を下げた。重吉も本村に頭を下げた。それは、裁判を長く取材してきた記者たちも見たことのないシーンだった。たった1人の傍聴人に頭を下げるために、裁判長がずっと待っていた。記者たちも、そして本村本人も、重吉のその姿に裁判官というものの苦渋を見た気がした。重吉の目が、遺族に対して、この不本意な判決をわびているように思えたのだ。

記者会見に臨んだ本村は、2年前の一審判決の時とは、雰囲気がまるで変わっていた。閉廷後の重吉裁判官とのシーンを聞かれた本村はこう答えた。「裁判官も人間です。われわれ遺族の気持ちを十分わかった上で、あの判決を出されたのだと思います。おそらく何日も何日も悩まれたんだろうと思います。判決には納得していませんが、裁判官の方たちには不満はありません」。間もなく26歳になる本村は、そう落ち着いて語った。弥生と夕夏にどういう報告をするのか、と聞かれると、さすがに「結局、私は家族を守ることもできず、自分の手で仇を討つこともできなかった。そして司法にその気持ちを受け入れてもらうこともできなかった。私は、何と無力な人間だと感じています」と、涙声となった。

そして、こうきっぱりと語った。「妻と娘の命は、この判決のように軽いものではありません。被害者にとっては、加害者が成人であるか少年であるかは関係ないんです。被告は、やはり少年法に守られました。少年法、あるいは古い判例に裁判所がいつまでもしがみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れていくのが司法の役割だと私は思います」。日本の国の価値基準を決めるのは司法である。その司法の中で、重要な役割を負っている裁判官たちが、出世であったり、保身であったり、とても狭い世界の中で、自分の思いを達成しようとしているとしたら、これほど空しいことはない。正義とは何か、日本の正義の価値基準は何か。そういう大原則に、裁判官は立ち向かって欲しい。本村は、新たな加害者も新たな被害者も出さない理想社会への第一歩こそ、この裁判官の勇気から始まると信じている。裁判所は社会に対して、こういうことをすればこうなるんだ、という“正義の価値”を示して欲しかった。


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結論1: 法律の知識が増えるほど、「法律は人のためにある」という事実が忘れられる。

結論2: この社会を動かすものは、「社会を動かそう」という野心ではない。

結論3: 人は、真実の言葉を語る人を恐れる。

結論4: 真実の言葉を語る人を恐れた人は、橋下知事と弁護団の場外乱闘のほうに興味を持つ。