犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

専業主婦と兼業主婦

2008-10-22 20:57:26 | 実存・心理・宗教
いつの世でも絶えず争いが続き、急に盛り上がっては沈静化したりして、永久に決着がつかない問題というものがある。例えば、専業主婦と兼業主婦の対立である。これは、「男性vs女性(未婚者vs既婚者(専業主婦vs兼業主婦))」という形をしている。決着がつかない問題というものは、実はすでに正解が出ている。すなわち、どちらも正解である。専業主婦は専業主婦の生活を肯定していればよく、兼業主婦は兼業主婦の生活を肯定していればよい。人にはそれぞれ色々な事情があり、人生観があり、様々な考え方がある。何もムキになって他者の人生観を否定する必要もないし、お互いに他人の生き方に干渉する権利もない。それにもかかわらず、この種の問題提起はいつまでも消えることがない。それは、個人の人生設計の問題に社会の制度設計の問題を持ち込むからである。これは人間の実存不安に基づく行動であり、完全に避けることができないが、不毛な水掛け論になってきたらすぐに手を引くことは可能である。

専業主婦は趣味や余暇に割く時間があり、自分のペースで生活できるが、家事労働は一度始めると無限に忙しくなるし、社会から取り残されるという漠然とした不安感も生じてくる。他方、兼業主婦は経済的には安定し、働くことに生きがいを見出すこともできるが、仕事と家事の両立の負担は大きく、何よりも自由な時間が少ない。どちらにもメリットとデメリットがあり、一長一短である。これはあくまでも、個人の人生設計の話である。1人の専業主婦がある日仕事を始めたところで、社会には何の影響もない。また、1人の兼業主婦がある日仕事を辞めたところで、日本経済はびくともしない。特定の専業主婦に向かって専業主婦一般への非難を浴びせることもできないし、逆もまた同じである。ところが、人間は自己の立場を正当化しようとすると、なぜかその対概念を否定せずにはいられなくなってくる。これが実存不安の発現であり、自己の存在証明でもある。そして、社会内の文脈において自らの人生設計の正しさを確認しようとすると、それまで「人それぞれ」で対立していなかった専業主婦と兼業主婦とが、突然対立する概念となる。

一段上の天下国家の視点に立つと、相対主義は突如として絶対主義になる。社会制度は客観的に存在するものとなり、法律も客観的に存在するものとなるからである。こうなると、兼業主婦から専業主婦への批判が始まる。「労働能力のある人がなぜ家にいなければならないのでしょうか? 専業主婦は社会に役立っておらず、税収にも年金にも貢献していません。兼業主婦は、国民年金第3号被保険者の専業主婦の分まで保険料を払わされているのです。あなたは労働や納税の義務について、どのように考えているのですか? 見ず知らずの他者に依存して生きていることに、少しは後ろめたさを感じて下さい」。もちろん、専業主婦からの激しい反論もある。「今やニートやフリーターが社会問題となっています。専業主婦が労働を始めたらどうなるでしょうか? 主婦のせいで雇用枠が減少し、新卒の学生が就職難となり、さらに低賃金で働かされることになります。あなたはそこまで考えてものを言っているのですか? 単に専業主婦が羨ましいだけではありませんか? 仕事を辞めるのはあなたの自由です」。

このような神学論争になってしまったら、すぐに手を引くことが賢明である。社会貢献や税収というのは、個人の問題でなく、政治の問題である。どんなに天下国家や社会を論じたところで、一個人の力で社会がどうなるものでもない。税収が増えて失業率が下がれば国家にとって都合がよいだけであり、個々人が心の奥底で抱えている問題とは何の関係もない。このような争いが生じるのは、人生設計の問題が社会構造の話に変わっても、やはり最後は人生設計の問題だからである。従って、専業主婦は意地でも「税金も保険料も払わないで後ろめたいです」とは言えないし、兼業主婦は意地でも「働かないでも済む人が羨ましいです」とは言えない。そして、お互いにそのような状況にあるからこそ、無限ループに陥る。「世界に1人しかいないこの私」同士が戦っている以上、決着はつかない。従って、見切りをつけるのが何よりの得策である。やはり、人にはそれぞれ色々な事情があり、人生観があり、様々な考え方がある。すべては突き詰めれば、人生は一度きりであり、いずれ老いて死ぬという実存不安の問題である。哲学的な問題は、国民年金第3号被保険者の制度論によって語ることができない。

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