犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

押川真喜子著 『在宅で死ぬということ』

2008-06-22 21:29:55 | 読書感想文
「どうしても行きたかったディズニーランド」より

p.121~2
(ゆかりちゃん=白血病の17歳の女性、 「私」=看護師の押川氏、 H先生=医師)

声かけに反応しなくなってから、ご両親は何度も、「よくがんばったね。ゆかりちゃん少し休もうね。もう眠っていいんだよ」と語りかけました。それからしばらくして、ゆかりちゃんは天に召されていきました。最後のディズニーランド行きから4日後のことでした。

ご両親もお姉ちゃんも、とりみだすことなく、最後までゆかりちゃんを優しく見守っていました。悲しさはずっと残るでしょうが、後悔は残らないくらいに一生懸命やったという気持ちが家族みんなから感じられました。お母さんとお姉ちゃんとで、ゆかりちゃんお気に入りの、おしゃれな紺のワンピースを着せました。側には、ディズニーランドで買ったぬいぐるみやグッズが並べられました。

そのあと、家族と一緒に涙を流しながらでしたが、ときには笑いながらゆかりちゃんの思い出話をすることができました。お父さんは、「全然苦しそうじゃなくて……本当によかった」と話し、私は、「最期があんなにやすらかなのは、ゆかりちゃんがこれまでがんばったことへの神様のプレゼントですね」と心から答えました。

お母さんは、「どうしてこんなにおだやかに話せて、冗談も言えるんでしょう……」といい、H先生は、「きっと十分にやってあげられたからでしょう」と答えました。「お姉ちゃんも、すごくがんばったね。小さい時から……。お姉ちゃんがいたからゆかりちゃんもがんばれたんだよね」と私が声をかけると、お姉ちゃんは涙をためてうなずきました。長い長いゆかりちゃんの闘いは、やっと終わりました。


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押川真喜子氏は、聖路加国際病院訪問看護科のナースマネージャーであるが、平成4年に自ら訪問看護科を立ち上げている。そして、訪問看護のプロとして、これまで多くの「在宅死」を見届けてきた。医療者にとっても、家族にとっても、そして何より本人にとっても死は厳しい現実である。つい数十年前まで、自宅で死を迎えるのは日本でも当たり前の光景であったが、医療が発達するにつれ、死は病院で迎えるものに変わってきた。たとえ0.001パーセントでも可能性があれば、それに賭けて治療と延命を望むのが当然であって、退院は闘病の放棄を意味するからである。しかし、さらに医療と通信機器の発達に伴って、自宅でも病院と遜色のない治療が可能になってきた。そして、最後はどうしても家に帰りたいという患者の希望も叶えられるようになってきた。

「QOL(quality of life)」という言葉がある。直訳すれば、生活の質、人生の質、生命の質である。これは、人々の生活を物質的な面から量的にのみ捉えるのではなく、精神的な豊かさや満足度も含めて、質的に捉える考え方であり、医療や福祉の分野で重視されている。通常、誰にとっても、一番安らぐ場所は自宅である。そして、病気の悪化は精神的なものの影響も大きく、病院での孤独感から解放されて住み慣れた我が家に戻ると、病状は改善の症状を示す例も多い。家族水入らずであれば、病院ではできないこともできる。もちろん、訪問看護の体制が万全に整っており、いつでも医師が電話一本で駆けつけられることが大前提である。押川氏の尽力などもあり、今や訪問看護のシステムは広く全国に広がっている。そして、病院で全身に管をつながれて死ぬのではなく、自宅のいつもの部屋で家族に囲まれて死を迎えたいという願いも実現できるようになってきた。

もちろん、話はきれいごとだけでは済まない。嘔吐や排泄の処理は当然として、家族が人工呼吸器や痰の吸引のチューブなどの機械の取り扱いに精通しなければならず、これを失敗するとすぐに命に関わる。さらには、介護する家族が精神的にも肉体的にも疲れてしまい、結局は病院に逆戻りということもあるようだ。さらには、家族と本人、家族同士がイライラして衝突し、ずっと仲の良い家族が不和になってしまうという危険もある。それにもかかわらず、本人や家族が在宅における死を望むのは、介護をする家族の「QOL」の向上という意味が大きいそうである。これは、受け止められない現状を受け止め、死後までも見据える覚悟である。「悲しみ」と「後悔」は、確かに異なった心の動きである。全力投球すれば悔いはないが、思い残すことがあればその悔いは消えない。死者の側が安らかにあの世に旅立てれば、生者の側もこの世から安らかに見送れる。生き方の問題は死に方の問題であり、死に方の問題は生き方の問題である。