犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均著 『翔太と猫のインサイトの夏休み』

2008-06-15 11:21:26 | 読書感想文
秋葉原の路上で7人が殺害された通り魔事件から1週間が経過した。加藤智大容疑者が事件前に携帯電話の掲示板に書き込んでいた数々の文言も明らかになった。「高校出てから8年、負けっ放しの人生」「不細工に人権無し」「幸せになりたかったな、整形しよっかな」「彼女がいない、それが全ての元凶」「いつも悪いのは全部俺」「無価値です。ゴミ以下です。リサイクルできる分、ゴミの方がマシです」「勝ち組はみんな死ねばいい」「やりたいこと…殺人」などなど。投げやりな愚痴が並ぶ。他者との比較によって幸福・不幸が測られるようになると、劣等感に苛まれた人の不満はますます蓄積し、社会に対する恨みに変化しやすくなる。

情報化社会に高度資本主義、競争社会に格差社会。このような構造は、恐らく今後も改善しないどころか、加速する一方である。そのような中で、人が他者との比較ではなく、自分自身の存在に対して確信を持つための方法はないのか。「そうさ、僕らは世界に一つだけの花。一人一人違う種を持つ。その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい。No.1にならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」。この歌もあまり聞かれなくなってしまった。やはりここは、根本的な哲学が必要である。この殺伐とした現代社会で生き抜くためには、人は物心付いてから、一度は自分自身の頭だけで考えておかなければならないことがある。それは、ハウツー的な人生論でもなければ、自分探しの旅でもない。


***************************************************

Q1.いまが夢じゃないって証拠はあるか

・ 人間は、自らの言語と理解力の外に出ることはできない。(p.16)
・ 神の眼の視点も、やはり人間によって考えられている。(p.30)
・ 哲学は、あらゆる非常識を包み込んだ上で常識に達する。(p.45)
・ 一生に一度、すべてを根こそぎ覆して新しく始めなければならない。(p.46)


Q2.たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか

・ 自分が感じていることは他人の感じていることと比較できない。(p.55)
・ 常軌を逸するためには、まずは常軌を習得しなければならない。(p.62)
・ 物質と精神の問題よりも、自己と他者の問題のほうが根本的である。(p.68)
・ 「自分」という特別なものが、平等ではなく現実に存在する。(p.77)
・ 自分を自分として存在させている必然的な理由も原因もない。(p.95)
・ 人間の価値は、個性や独自性ではなく、その存在自体に基づく。(p.100)


Q3.さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか

・ 不道徳な選択肢が一番強い動機になることが多い。(p.117)
・ 理屈をつけることができる部分は、いつも表面的で限られている。(p.122)
・ 争いを好まない人は、すでに一段高い争いをしてしまっている。(p.128)
・ 物事の解釈の不一致よりも、その見え方の不一致のほうが大変である。(p.140)
・ 相対主義者は、相対主義自体を相対化することができない。(p.146)
・ ある主張に反対する人は、その設定された空間の中にいる。(p.167)


Q4.自分がいまここに存在していることに意味はあるか

・ 「思おうと思う」ことは、「思う」ことと同じである。(p.171)
・ 自由の観念は、「不自由がない」というところにしかない。(p.174)
・ 自分が存在することにより、「いま」「ここ」の時空間が存在する。(p.192)
・ 自分の死は、世界そのものの消滅である。(p.200)
・ 人生の全体を丸ごと外から意味づけるものはあり得ない。(p.204)
・ 問いの前で茫然とするしかない問いが本当の問いである。(p.209)

再発防止策の意味

2008-06-15 08:53:12 | 時間・生死・人生
「被害者の死を無駄にしないように、安全管理を徹底し、再発防止に努める」。これは、一般的に広く普及している言い回しである。そして、人々は善意によって、この再発防止策を政治的に推し進めようとする。しかしながら、この命題が正当性を得る条件は、非常に微妙であり、少しでも油断すれば根本のところを取り違える。確かに、事故後も安全管理が徹底されず、同じような事故が再発したとなれば、被害者の死が完全に無駄になったという脱力感が生じる。それでは逆に、安全管理が徹底され、再発防止策が確立されれば、被害者の死は無駄にならなかったと言えるのか。決してそのようなことはない。逆は真ではない。

事故の教訓から再発防止策が確立されれば、政治的な目的は達成される。しかし、この目的達成が「正解」となれば、その前提であるところの被害者の死までが「正解」とされてしまう。論理的に、生よりも死のほうが要求されてしまう。これは恐るべきことである。被害者の死は、絶対的に「不正解」でなければならない。もし、被害者が生きてさえいてくれるならば、生きて帰って来るならば、安全管理の徹底などどうでもよい。そんな話に興味はない。だからこそ、せめて被害者が帰って来ないならば、安全管理の徹底を求めたい。この逆説を経て初めて、「被害者の死を無駄にしないように、安全管理を徹底する」という言い回しは「正解」となる。

安全管理を徹底し、再発防止に努めようとする人は、しばしば被害者の無念の声を聞きたがる。そして、墓前で被害者と再発防止の約束をする。これも善意に基づく行為だけに、強く非難することはできないが、油断による根本のところの取り違えが生じている。死者の声が聞けるのは、その声を生前に聞いた人だけである。生前に共に生活をし、相互に記憶を共有し合った者のみが、その声を聞ける。そしてその声は、論理的には「死にたくなかった」以外ではあり得ない。「自分の死を無駄にしないように、安全管理を徹底してほしい」などという声を発する死者はいない。そのような声を聞いた人は、単に自分が聞きたいように聞いているだけである。

政治的な善意は、再発防止策が次善の策であることを忘れる。最善の策は、あくまでも被害者が生きて帰って来ることである。あくまでも被害者の死は、論理的に「不正解」でなければならない。この根本を手放さないことによって、逆説による再発防止策の意味付けが可能となる。被害者の死を無駄にしないことは、最善策として政治的に追求されてはならず、社会的な意義を有してはならない。また、体系化やシステム化にも馴染まない。このようなことをしてしまえば、被害者の死への畏怖は消失する。人間は生きている限り誰しもいつかは死ぬ運命にあり、生死は人智を超えた奇跡である(宗教的な意味に限らず、無神論からも同様)。この一点さえ忘れなければ、根本の取り違えは防げるはずである。