犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

少年法改正

2008-06-27 23:34:13 | 実存・心理・宗教
秋葉原通り魔事件(6月8日)の陰に隠れてあまり大きく報道されなかったが、6月11日、懸案であった改正少年法が可決された。これによって、犯罪被害者や遺族が少年審判を傍聴できるようになった。反対論からは、「被害者や遺族が新たな心理的ショックを受ける」との論拠も挙げられているが、これはあくまで表向きの理由である。反対論の中心は、あくまでも成人とは異なる少年の可塑性であり、成人以上に強く求められる更生と社会復帰の理念である。そして、この理念の追求にとって、被害者側の要求は正面から衝突するものであった。今回、この衝突がクローズアップされなかったことは、世論における1つの構造の変化を示している。それは、4月の光市母子殺害事件の死刑判決においても示されたものであった。

光市母子殺害事件の死刑判決とその後の世論が、実証的に示した構造は沢山ある。特に、死刑廃止論と修復的司法が現在の国民に対してあまり説得力を持っていないことは明白になった。また、少年法の精神も大きな痛手を受けた。それも、従来的な左右のイデオロギー論争を前提にして政治的な主義主張が否定されたのではなく、その問題設定自体を無効にされてしまったという形である。土俵の上で戦おうと思っていたところが、土俵自体を覆されてしまった。少年審判の非公開性の趣旨、被害者の意見陳述による少年の更生への影響といった従来的な問題設定そのものが、今やさほど価値のあるものだとは受け止められていない。

従来の少年事件といえば、成人事件以上に可塑性と更生が問題となり、そのプライバシーをめぐって論争が起きていた。被害者の側とすれば、加害者が少年であろうとなかろうと関係がない。ところが、その事件の詳細を知ろうとすると、否応なしに少年法の精神が壁となり、戦いに巻き込まれてしまう。この違和感から、少年法の精神に異議を唱えようとすると、まさに左右のイデオロギー論争に発展する。例えば、神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗こと少年Aや、大阪堺市のシンナー通り魔事件の少年については、週刊誌に実名や顔写真が掲載され、左派から批判の大合唱が起こった。これに対して右派からは、なぜか表現の自由が持ち出され、泥沼の裁判になってしまった。被害者は蚊帳の外である。

光市母子殺害事件の元少年については、その実名や顔写真については全くといっていいほど関心が向けられなかった。確かに、事件から9年も経って元少年は27歳にもなっており、その方面での関心が薄れていることにも理由がある。しかしながら、このような凶悪な罪を犯したのは一体誰なのか、どのような人物なのか、更生や社会復帰は可能なのか、この点が社会的に重要な問題とはされなかった。神戸市の少年Aの事件とは対照的である。これは、光市の事件では完全に被害者側からの視点が採用され、加害者からの視点が無効にされたことを意味している。弁護団は従来のパラダイムに従って、週刊誌が少年の実名や写真を掲載する時を待っており、それを糾弾する準備をしていた。しかし、本村氏が向き合った問題は、そのようなレベルをはるかに超越していた。

元少年の視点と被害者遺族の視点、これは土俵の上での勝負の問題ではなく、どの土俵で戦いをするかという問題である。そして、本村氏の論理は万人に普遍であったが、弁護団の論理は狭い党派の中でのみ通用するものであったため、日本社会では広く被害者側の視点が採用された。そこで、被告人の元少年は、その顔も固有名詞も不要になってしまった。「被告人の元少年」というだけで十分となり、不特定多数の一般論のうちの1つということで論理が完結してしまったからである。被害者側からすれば、犯人が少年であろうとなかろうと関係なく、その少年がどんな人生を送ってきたかなどはさらに関係はなく、死刑に値する罪を犯した者は死刑にならなければならない。かくして、元少年は、顔写真も実名も奪われた。このようにプライバシーを侵害すらしてもらえないことは、プライバシーを侵害されることよりも恐ろしかったはずである。

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