犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者の視線 評論家の視線 (後半)

2008-06-12 15:43:20 | 時間・生死・人生
現代の評論家とは、特定の分野についての多くの知識や経験を持ち、それを踏まえた解説や意見を述べる職業である。従って、実際に亡くなった被害者の友人が献花台で泣きながら手を合わせている映像を前にすると、専門知識と研究実績が全く使えなくなる。そして、評論家ではなく1人の人間に戻って、「ご冥福をお祈りします」と言うしかなくなる。これは語るに落ちている。実証科学は、ずっと被害者側の視点を見落としてきた。客観性を維持するためには、受動態の「犯罪被害」に着目するよりも、能動態の「犯罪」に着目することが必要であったからである。そして、能動態の犯罪を抑制すれば、自動的に受動態の犯罪被害も抑制されるはずであった。こうして、科学的な刑事政策の理論が確立し、社会学もこの構造を採用し、評論家もこの構造に乗ってきた。受動態の「犯罪被害」は結果論であり、起きてしまったものは今さら変えようがなく、生産性を重視する実証科学のパラダイムに合致しなかったからである。しかし、実際に結果論になっていた理論はどちらか。パソコンや携帯電話を使った新手の犯罪が続発し、そのたびに従来の理論が全く役に立たなくなって慌てているのはどちらか。

地下鉄サリン事件、下関駅構内通り魔事件、池袋通り魔事件、池田小学校事件、土浦市駅構内通り魔事件など、無差別の凶行が起きるたびに、評論家の視線はもっともらしい解釈を提示する。しかし、それらはいずれも結果論でしかない。現実を現実として示す視線としては、被害者の視線に勝るものはない。無差別の凶行は、社会に向けられた不満をその原因としている。しかし、社会など、個人の集まりに名付けられた名称に過ぎない。一体全体、物質名詞ではない抽象名詞に対して、何をどのように殺傷しようというのか。これは、事件を起こす前はわからず、起こしてみて初めてわかる。トラックで突っ込んで刃物を振り回してはみたものの、社会や世間、世の中などといったものは、抽象的にしか存在しなかった。具体的に存在するのは個々の人間であり、人間の肉体には血が通っていた。そして、その具体的な人間を刃物で刺した結果、その人間の将来を奪い、家族や友人を悲しませただけだった。抽象的な社会に向けた刃物のほうは空振りしてしまった。実に愚かである。

肥大した自我は、その不満を抽象的な社会に向けたがる。しかし、日本だけで1億2000万人、世界では65億人もの人間が存在する地球において、「国際社会」「日本社会」から「地域社会」まで、社会などというものは、具体的に刃物で刺せる形で示すことなどできはしない。社会など、個人の集まりに名付けられた名称に過ぎない。社会への攻撃は、どういうわけかすべて個人への攻撃になってしまう。すべての無差別的な凶行は、一旦実行した瞬間に、被害者にとっては差別的になる。このような単純な事実を容赦なく指摘するのは、評論家の視線ではなく、殺された被害者の友人や家族の視点である。被害者は運が悪かった。確かにその通りである。問題はその先である。加害者によって選ばれなかった者は、選ばれてしまった者の言葉には降参するしかない。評論家も1人の人間に戻って、「ご冥福をお祈りします」と言うしかない。どんなに加害者が周到に劇場型犯罪を実行しても、実際に献花台の前で泣きながら手を合わせている友人の姿を見せられれば、あっという間に劇場から現実に引き戻される。他者にも自我があり、その他我は互換性によって反転し、どの自我も他我である。これらの端的な事実を、選ばれなかった人に思い知らせるのは、選ばれてしまった被害者の言葉しかない。

日本では格差はますます広がり、拝金主義も際限なく蔓延している以上、抽象的な「社会」に対して不満を持つ人は、ますます増えるはずである。これが無差別殺人という形で噴出するのを最後に食い止めるのは、評論家の視線の力ではなく、被害者の視線の力である。実際にレンタカーでトラックを借り、ナイフを準備している人に対して最後の最後に届くのは、被害者の視線がもたらす力である。「二度とこのような事件を起きないようにするために、私達はどうすればよいのか」。この答えは、評論家による高みの見物の視点を共有することではなく、胸が張り裂けそうな被害者の家族や友人の視点を共有することによって自然と示される。殺された被害者の死の直前の凄まじい痛みと苦しみと無念さ、第一報を聞かされた家族や友人の驚愕、このようなものは、評論家のように明確に言語化することはできない。しかし、犯人のほうが「ムシャクシャ」で行き止まりなのだから、被害者の視点を示す言語も「モヤモヤ」で十分である。この言語の限界を認めることによって、言語はその言語自身を無言で語る。この文脈においては、大上段に天下国家や社会構造を論じるよりも、等身大の人間を論じることが、結局は社会を論じていることになる。そして、根本的な解決を阻害すると言われているところの「被害感情」が、実は最も根本を論じていることにも気付くはずである。


「重大な事件を犯し申し訳ない」 加藤容疑者の両親謝罪(朝日新聞) - goo ニュース