犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中野翠著 『満月雑記帳 第709回』

2008-06-17 13:43:22 | 読書感想文
サンデー毎日6月29日号 p.48~49 より (秋葉原無差別殺人事件について)


この25歳の加害者は、あまりにも世間にはびこる幸福と不幸のイメージに縛られすぎている。何だかこの数年、社会全体のシメツケもきつくなっている気がしてならないのよね。幸福と不幸のイメージがものすごく単純化されてきたというか、粗雑になってきたというか。「セレブ」「勝ち組・負け組」「下流」「イケメン」「ブサイク」といった言葉がこんなに幅をきかすようになるなんて。そして、あらゆるジャンルにおいてのランキングがこんなにも流行するなんて。ヘンな国じゃないの。せせこましい国じゃないの。どのジャンルでも「批評」は敬遠され、「ランクづけ」ばかりが求められる。手垢のついた言葉ではあるけれど、社会の「画一化」がきつくなっているのは事実なんじゃないか?

ところで。加害者が書き込んだと思われるネットの言葉を見て、私がとても不思議に感じたのは、犯行後の自分に関して一言も触れられていないことだ。あれだけの殺人事件を引き起こしたら、どう考えたって極刑だろう。つまり、死刑。はたして、それを十分に覚悟したうえでの犯行だったのだろうか? どうもそんなふうには思えない。警官に銃口を向けられたら、アッサリとナイフを捨ててしまうし、逮捕されてから1日2日で後悔する様子を見せているというし。その後(長時間にわたる取り調べ、裁判、獄中生活、そして死刑)についてはどう考えていたのだろう。どこまでリアルに受けとめていたのだろう。邪推になるかもしれないが、その後に関してはあんまり考えていなかったんじゃないか? そんな軽さを感じずにはいられない。


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この事件に関しては、様々な人が様々な立場から分析をしているが、私にはこの中野氏の単純なコラムが一番ストンと落ちた。コラムニストは、「私はこう思う」という思考を突き詰め、その結果としてどの「私」も「私はこう思う」という形でしか存在し得ないという単純な事実に達し、結果的に客観性を獲得する。これに対して、識者と呼ばれる人は、自分自身を除いて最初から客観性を目指そうとする。しかしながら、識者は自分自身の専門分野に引き付けて分析をするため、どんな事件が起こっても、結局は同じところに行き着いてしまう。そして、事件そのものを端的に捉えることもなく、口先だけで死者の冥福を祈り、それどころか事件の再発を防止することもできず、誰の分析が現代社会のオピニオンリーダー足りうるかという競争で終わってしまう。

人材派遣のシステムを改善すべきである。正社員と非正規雇用の差が事件の背景にあるのだ。若者の自尊心を大切にすべきだ。小泉元首相の新自由主義、規制緩和がそもそもの元凶である。ネット社会を見直すべきだ。親の過度の介入が子供を追い詰めたのだ。ワーキングプア、ニート、引きこもり対策を推進しなければならない。社会の格差を是正しない限り、同じような犯罪は起きる。表面では深刻な顔をしつつ、視聴率が稼げて喜んでいるワイドショーが一番悪い・・・。どれもこれも正論であり、それ自体ではどこも間違いではないが、全くストンと落ちない。最後には、「今、何をすべきか、真剣に考え実行に移さなければなりません」という感じでまとめて終わるのが関の山である。事件の背景に遡ることは、事件から遠ざかることでもある。細々とした理屈は、加害者のそのトラックで暴走してナイフで刺す瞬間の、その脳内に存在するはずもない。コラムニストは、そのことを理解しているがゆえに謙虚である。