犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中野翠著 『満月雑記帳 第709回』

2008-06-17 13:43:22 | 読書感想文
サンデー毎日6月29日号 p.48~49 より (秋葉原無差別殺人事件について)


この25歳の加害者は、あまりにも世間にはびこる幸福と不幸のイメージに縛られすぎている。何だかこの数年、社会全体のシメツケもきつくなっている気がしてならないのよね。幸福と不幸のイメージがものすごく単純化されてきたというか、粗雑になってきたというか。「セレブ」「勝ち組・負け組」「下流」「イケメン」「ブサイク」といった言葉がこんなに幅をきかすようになるなんて。そして、あらゆるジャンルにおいてのランキングがこんなにも流行するなんて。ヘンな国じゃないの。せせこましい国じゃないの。どのジャンルでも「批評」は敬遠され、「ランクづけ」ばかりが求められる。手垢のついた言葉ではあるけれど、社会の「画一化」がきつくなっているのは事実なんじゃないか?

ところで。加害者が書き込んだと思われるネットの言葉を見て、私がとても不思議に感じたのは、犯行後の自分に関して一言も触れられていないことだ。あれだけの殺人事件を引き起こしたら、どう考えたって極刑だろう。つまり、死刑。はたして、それを十分に覚悟したうえでの犯行だったのだろうか? どうもそんなふうには思えない。警官に銃口を向けられたら、アッサリとナイフを捨ててしまうし、逮捕されてから1日2日で後悔する様子を見せているというし。その後(長時間にわたる取り調べ、裁判、獄中生活、そして死刑)についてはどう考えていたのだろう。どこまでリアルに受けとめていたのだろう。邪推になるかもしれないが、その後に関してはあんまり考えていなかったんじゃないか? そんな軽さを感じずにはいられない。


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この事件に関しては、様々な人が様々な立場から分析をしているが、私にはこの中野氏の単純なコラムが一番ストンと落ちた。コラムニストは、「私はこう思う」という思考を突き詰め、その結果としてどの「私」も「私はこう思う」という形でしか存在し得ないという単純な事実に達し、結果的に客観性を獲得する。これに対して、識者と呼ばれる人は、自分自身を除いて最初から客観性を目指そうとする。しかしながら、識者は自分自身の専門分野に引き付けて分析をするため、どんな事件が起こっても、結局は同じところに行き着いてしまう。そして、事件そのものを端的に捉えることもなく、口先だけで死者の冥福を祈り、それどころか事件の再発を防止することもできず、誰の分析が現代社会のオピニオンリーダー足りうるかという競争で終わってしまう。

人材派遣のシステムを改善すべきである。正社員と非正規雇用の差が事件の背景にあるのだ。若者の自尊心を大切にすべきだ。小泉元首相の新自由主義、規制緩和がそもそもの元凶である。ネット社会を見直すべきだ。親の過度の介入が子供を追い詰めたのだ。ワーキングプア、ニート、引きこもり対策を推進しなければならない。社会の格差を是正しない限り、同じような犯罪は起きる。表面では深刻な顔をしつつ、視聴率が稼げて喜んでいるワイドショーが一番悪い・・・。どれもこれも正論であり、それ自体ではどこも間違いではないが、全くストンと落ちない。最後には、「今、何をすべきか、真剣に考え実行に移さなければなりません」という感じでまとめて終わるのが関の山である。事件の背景に遡ることは、事件から遠ざかることでもある。細々とした理屈は、加害者のそのトラックで暴走してナイフで刺す瞬間の、その脳内に存在するはずもない。コラムニストは、そのことを理解しているがゆえに謙虚である。

永井均著 『翔太と猫のインサイトの夏休み』

2008-06-15 11:21:26 | 読書感想文
秋葉原の路上で7人が殺害された通り魔事件から1週間が経過した。加藤智大容疑者が事件前に携帯電話の掲示板に書き込んでいた数々の文言も明らかになった。「高校出てから8年、負けっ放しの人生」「不細工に人権無し」「幸せになりたかったな、整形しよっかな」「彼女がいない、それが全ての元凶」「いつも悪いのは全部俺」「無価値です。ゴミ以下です。リサイクルできる分、ゴミの方がマシです」「勝ち組はみんな死ねばいい」「やりたいこと…殺人」などなど。投げやりな愚痴が並ぶ。他者との比較によって幸福・不幸が測られるようになると、劣等感に苛まれた人の不満はますます蓄積し、社会に対する恨みに変化しやすくなる。

情報化社会に高度資本主義、競争社会に格差社会。このような構造は、恐らく今後も改善しないどころか、加速する一方である。そのような中で、人が他者との比較ではなく、自分自身の存在に対して確信を持つための方法はないのか。「そうさ、僕らは世界に一つだけの花。一人一人違う種を持つ。その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい。No.1にならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」。この歌もあまり聞かれなくなってしまった。やはりここは、根本的な哲学が必要である。この殺伐とした現代社会で生き抜くためには、人は物心付いてから、一度は自分自身の頭だけで考えておかなければならないことがある。それは、ハウツー的な人生論でもなければ、自分探しの旅でもない。


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Q1.いまが夢じゃないって証拠はあるか

・ 人間は、自らの言語と理解力の外に出ることはできない。(p.16)
・ 神の眼の視点も、やはり人間によって考えられている。(p.30)
・ 哲学は、あらゆる非常識を包み込んだ上で常識に達する。(p.45)
・ 一生に一度、すべてを根こそぎ覆して新しく始めなければならない。(p.46)


Q2.たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか

・ 自分が感じていることは他人の感じていることと比較できない。(p.55)
・ 常軌を逸するためには、まずは常軌を習得しなければならない。(p.62)
・ 物質と精神の問題よりも、自己と他者の問題のほうが根本的である。(p.68)
・ 「自分」という特別なものが、平等ではなく現実に存在する。(p.77)
・ 自分を自分として存在させている必然的な理由も原因もない。(p.95)
・ 人間の価値は、個性や独自性ではなく、その存在自体に基づく。(p.100)


Q3.さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか

・ 不道徳な選択肢が一番強い動機になることが多い。(p.117)
・ 理屈をつけることができる部分は、いつも表面的で限られている。(p.122)
・ 争いを好まない人は、すでに一段高い争いをしてしまっている。(p.128)
・ 物事の解釈の不一致よりも、その見え方の不一致のほうが大変である。(p.140)
・ 相対主義者は、相対主義自体を相対化することができない。(p.146)
・ ある主張に反対する人は、その設定された空間の中にいる。(p.167)


Q4.自分がいまここに存在していることに意味はあるか

・ 「思おうと思う」ことは、「思う」ことと同じである。(p.171)
・ 自由の観念は、「不自由がない」というところにしかない。(p.174)
・ 自分が存在することにより、「いま」「ここ」の時空間が存在する。(p.192)
・ 自分の死は、世界そのものの消滅である。(p.200)
・ 人生の全体を丸ごと外から意味づけるものはあり得ない。(p.204)
・ 問いの前で茫然とするしかない問いが本当の問いである。(p.209)

再発防止策の意味

2008-06-15 08:53:12 | 時間・生死・人生
「被害者の死を無駄にしないように、安全管理を徹底し、再発防止に努める」。これは、一般的に広く普及している言い回しである。そして、人々は善意によって、この再発防止策を政治的に推し進めようとする。しかしながら、この命題が正当性を得る条件は、非常に微妙であり、少しでも油断すれば根本のところを取り違える。確かに、事故後も安全管理が徹底されず、同じような事故が再発したとなれば、被害者の死が完全に無駄になったという脱力感が生じる。それでは逆に、安全管理が徹底され、再発防止策が確立されれば、被害者の死は無駄にならなかったと言えるのか。決してそのようなことはない。逆は真ではない。

事故の教訓から再発防止策が確立されれば、政治的な目的は達成される。しかし、この目的達成が「正解」となれば、その前提であるところの被害者の死までが「正解」とされてしまう。論理的に、生よりも死のほうが要求されてしまう。これは恐るべきことである。被害者の死は、絶対的に「不正解」でなければならない。もし、被害者が生きてさえいてくれるならば、生きて帰って来るならば、安全管理の徹底などどうでもよい。そんな話に興味はない。だからこそ、せめて被害者が帰って来ないならば、安全管理の徹底を求めたい。この逆説を経て初めて、「被害者の死を無駄にしないように、安全管理を徹底する」という言い回しは「正解」となる。

安全管理を徹底し、再発防止に努めようとする人は、しばしば被害者の無念の声を聞きたがる。そして、墓前で被害者と再発防止の約束をする。これも善意に基づく行為だけに、強く非難することはできないが、油断による根本のところの取り違えが生じている。死者の声が聞けるのは、その声を生前に聞いた人だけである。生前に共に生活をし、相互に記憶を共有し合った者のみが、その声を聞ける。そしてその声は、論理的には「死にたくなかった」以外ではあり得ない。「自分の死を無駄にしないように、安全管理を徹底してほしい」などという声を発する死者はいない。そのような声を聞いた人は、単に自分が聞きたいように聞いているだけである。

政治的な善意は、再発防止策が次善の策であることを忘れる。最善の策は、あくまでも被害者が生きて帰って来ることである。あくまでも被害者の死は、論理的に「不正解」でなければならない。この根本を手放さないことによって、逆説による再発防止策の意味付けが可能となる。被害者の死を無駄にしないことは、最善策として政治的に追求されてはならず、社会的な意義を有してはならない。また、体系化やシステム化にも馴染まない。このようなことをしてしまえば、被害者の死への畏怖は消失する。人間は生きている限り誰しもいつかは死ぬ運命にあり、生死は人智を超えた奇跡である(宗教的な意味に限らず、無神論からも同様)。この一点さえ忘れなければ、根本の取り違えは防げるはずである。

養老孟司著 『異見あり』

2008-06-14 21:22:40 | 読書感想文
「ドーピング禁止はスポーツにおける偽善である」より (p.73~)


なぜドーピングはいけないのか。テレビを見ていたら、オリンピック用のトラックを開発している人が紹介されていた。ポリウレタンのみごとなトラックである。層構造になっており、たいへん走り良さそうである。実際に走り良さを目的として開発されたものであろう。このように、トラックは徹底的に人工化する。走り良さの限りを尽くす。だけど身体はいじってはいけない。トラックには小石も落ちていない。しかも徹底的に走り良いように改造してある。そういう場所に、人間の身体だけ「自然のまま」で置いておく。そんなことができるわけがない。

スポーツに潜む偽善をもっともよく象徴するのが、オリンピックである。職業野球の選手であるマグワイアが喝采を受けたのは、人びとがむしろ潜在的にそれに気づいているためかもしれない。どうやったっていい。どうせ打つなら、徹底的に打ってみろ。これは現代の日本人には、おそらくいちばん欠けた感覚である。べつに勝たなくてはいけないこともない。しかし人生は勝負をどうしても含んでいる。どうせ勝負の世界に入るなら、半端にやるな。それなら、ホームランをたくさん打つほうがいいのである。


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これはちょうど10年前の1998年の文章であるが、ここのところの「スピード社水着問題」を予言しているかのようである。日本水泳連盟の公認のメーカーは、ミズノ、アシックス、デサントの3社であり、スピード社は公認メーカーではないが、現場からは「このままではメダルは獲れない」という声があがっている。北京オリンピック開幕を3ヶ月後に控えてのドタバタ劇であり、企業の論理に翻弄され、選手たちは混乱の中で直前練習をしなければならない状況となっている。北島康介選手は、水着の話題ばかりが騒がれる風潮に対して、先週のジャパンオープンに「泳ぐのは僕だ」と3ヶ国語で書かれたTシャツを着て決勝に現れた。そしてレース後には「水着が泳ぐわけじゃない。選手が主役でなければならない」と強く訴えた。

ジャパンオープンでは次々と日本新記録が誕生したが、このような素直に喜べない記録ラッシュも珍しい。北島選手に限らず、見ているほうも心中複雑である。アナウンサーが「日本新記録!」と絶叫したところで、その奥にある恐ろしいのものを隠蔽しているだけであり、ますます白々しくなる。果たして人間が新記録を出しているのか。それとも水着が新記録を出しているのか。後者であれば、それはお金が新記録を出していることと等しくなる。ミズノ、アシックス、デサントの3社がスピード社に匹敵する技術を開発し、オリンピックでメダルが取れるようになれば、とりあえず表面上の問題は解決する。しかし、「泳ぐのは僕だ」という指摘の恐ろしさを消すことはできない。水着の改良と、肉体のドーピングとは、構造的な類似点が非常に多い。

被害者の視線 評論家の視線 (後半)

2008-06-12 15:43:20 | 時間・生死・人生
現代の評論家とは、特定の分野についての多くの知識や経験を持ち、それを踏まえた解説や意見を述べる職業である。従って、実際に亡くなった被害者の友人が献花台で泣きながら手を合わせている映像を前にすると、専門知識と研究実績が全く使えなくなる。そして、評論家ではなく1人の人間に戻って、「ご冥福をお祈りします」と言うしかなくなる。これは語るに落ちている。実証科学は、ずっと被害者側の視点を見落としてきた。客観性を維持するためには、受動態の「犯罪被害」に着目するよりも、能動態の「犯罪」に着目することが必要であったからである。そして、能動態の犯罪を抑制すれば、自動的に受動態の犯罪被害も抑制されるはずであった。こうして、科学的な刑事政策の理論が確立し、社会学もこの構造を採用し、評論家もこの構造に乗ってきた。受動態の「犯罪被害」は結果論であり、起きてしまったものは今さら変えようがなく、生産性を重視する実証科学のパラダイムに合致しなかったからである。しかし、実際に結果論になっていた理論はどちらか。パソコンや携帯電話を使った新手の犯罪が続発し、そのたびに従来の理論が全く役に立たなくなって慌てているのはどちらか。

地下鉄サリン事件、下関駅構内通り魔事件、池袋通り魔事件、池田小学校事件、土浦市駅構内通り魔事件など、無差別の凶行が起きるたびに、評論家の視線はもっともらしい解釈を提示する。しかし、それらはいずれも結果論でしかない。現実を現実として示す視線としては、被害者の視線に勝るものはない。無差別の凶行は、社会に向けられた不満をその原因としている。しかし、社会など、個人の集まりに名付けられた名称に過ぎない。一体全体、物質名詞ではない抽象名詞に対して、何をどのように殺傷しようというのか。これは、事件を起こす前はわからず、起こしてみて初めてわかる。トラックで突っ込んで刃物を振り回してはみたものの、社会や世間、世の中などといったものは、抽象的にしか存在しなかった。具体的に存在するのは個々の人間であり、人間の肉体には血が通っていた。そして、その具体的な人間を刃物で刺した結果、その人間の将来を奪い、家族や友人を悲しませただけだった。抽象的な社会に向けた刃物のほうは空振りしてしまった。実に愚かである。

肥大した自我は、その不満を抽象的な社会に向けたがる。しかし、日本だけで1億2000万人、世界では65億人もの人間が存在する地球において、「国際社会」「日本社会」から「地域社会」まで、社会などというものは、具体的に刃物で刺せる形で示すことなどできはしない。社会など、個人の集まりに名付けられた名称に過ぎない。社会への攻撃は、どういうわけかすべて個人への攻撃になってしまう。すべての無差別的な凶行は、一旦実行した瞬間に、被害者にとっては差別的になる。このような単純な事実を容赦なく指摘するのは、評論家の視線ではなく、殺された被害者の友人や家族の視点である。被害者は運が悪かった。確かにその通りである。問題はその先である。加害者によって選ばれなかった者は、選ばれてしまった者の言葉には降参するしかない。評論家も1人の人間に戻って、「ご冥福をお祈りします」と言うしかない。どんなに加害者が周到に劇場型犯罪を実行しても、実際に献花台の前で泣きながら手を合わせている友人の姿を見せられれば、あっという間に劇場から現実に引き戻される。他者にも自我があり、その他我は互換性によって反転し、どの自我も他我である。これらの端的な事実を、選ばれなかった人に思い知らせるのは、選ばれてしまった被害者の言葉しかない。

日本では格差はますます広がり、拝金主義も際限なく蔓延している以上、抽象的な「社会」に対して不満を持つ人は、ますます増えるはずである。これが無差別殺人という形で噴出するのを最後に食い止めるのは、評論家の視線の力ではなく、被害者の視線の力である。実際にレンタカーでトラックを借り、ナイフを準備している人に対して最後の最後に届くのは、被害者の視線がもたらす力である。「二度とこのような事件を起きないようにするために、私達はどうすればよいのか」。この答えは、評論家による高みの見物の視点を共有することではなく、胸が張り裂けそうな被害者の家族や友人の視点を共有することによって自然と示される。殺された被害者の死の直前の凄まじい痛みと苦しみと無念さ、第一報を聞かされた家族や友人の驚愕、このようなものは、評論家のように明確に言語化することはできない。しかし、犯人のほうが「ムシャクシャ」で行き止まりなのだから、被害者の視点を示す言語も「モヤモヤ」で十分である。この言語の限界を認めることによって、言語はその言語自身を無言で語る。この文脈においては、大上段に天下国家や社会構造を論じるよりも、等身大の人間を論じることが、結局は社会を論じていることになる。そして、根本的な解決を阻害すると言われているところの「被害感情」が、実は最も根本を論じていることにも気付くはずである。


「重大な事件を犯し申し訳ない」 加藤容疑者の両親謝罪(朝日新聞) - goo ニュース

被害者の視線 評論家の視線 (前半)

2008-06-11 16:43:49 | 時間・生死・人生
「二度とこのような事件を起きないようにするために、私達はどうすればよいのか」。このような問いは、今回の秋葉原の通り魔のような凶悪な事件が起きるたびに繰り返され、そのたびに虚しさが倍増する。そして、その分だけ言葉が軽くなる。この問いが虚しくなるのは、社会に対して政治的に問うているからであり、「今後もこのような事件は起きるに決まっている」という常識に安住しているからである。この問いの成立は、厳しい逆説を経たものではなければならない。もしも、「私達は事件を少しでも減らすためにはどうすればよいのか」と問い直せば、問いとしては正確になる。しかしながら、そこにおいては、被害者の死は1つの統計の数値となってしまう。理不尽に殺された被害者の論理としては、「犠牲者を減らす」ではなく、「犠牲者をなくす」でなければならない。実際に、「二度このような事件を起きないようにする」という決意が広く共有され、無差別の凶行を計画していた人がそれを思い止まれば、潜在的に事件の数は減る。このような効果は、現に飲酒運転の撲滅運動にも見られる。人間には、「起きるはずだったのに起きなかったこと」は見ることができないが、その起きるはずだった事件は、確かに二度と起きていない。

悲惨な事件が起きるたびに、評論家の分析が始まるのはいつものことである。加藤容疑者本人は、「世の中が嫌になった」「仕事のことでムシャクシャしていた」「自分の境遇に不満があった」程度のことしか供述していないが、評論家はこれを丁寧にわかりやすく解説してくれる。自分の存在価値を知らしめたいという気持ちがあったのではないか。自尊心が高すぎて、それが満足されない鬱積が社会に対する敵意となったのではないか。精神的にも経済的にも未熟な成人が増えてきたのではないか。色々と結果論で分析している本人は大真面目であるが、理論の巧拙の競い合いとなれば、これは無益どころか有害である。容疑者の「世の中が嫌になった」との供述を、「世の中に自分の存在価値を知らしめたくなった」と言い換えたところで、一体何をわかったことになるのか。それは、あくまでも評論家がそれぞれの仕方によって理解しているだけの話であり、視聴者はそのように理解する評論家の理解の仕方を見せられているだけである。そこまで自信があるのならば、結果論で解説するのではなく、事前に予知して防止してもらいたくもなる。

事件直後の混沌とした人々の心理状態は、現代社会の強力な磁場形成によって、特定の形にはめられて行く。分析すればするほど問題は根深くなり、社会、時代、構造といったところまで話が広がり、「真の犯人捜し」が始まる。こうなると、話が無限に大きくなりすぎて、とても答えなど出なくなる。まず、事件の9日前、容疑者が職場の現場責任者から解雇の見通しを通告されていたことが判明すると、根本的な原因は派遣労働のシステムであって、今の政府与党が悪いのだという意見も出てくる。しかし、派遣労働の問題は今に始まったことではなく、今後も何十年(何百年)かかるかわかったものではない。また、事件の1週間前に容疑者がネット論争で激怒していたことが判明すると、ネット社会の病理が遠因であるとされるが、これも今に始まったことではない。容疑者が当日も携帯電話の掲示板から犯行の予告と実況中継をしていたことが判明すると、サイトの監視による犯行の予防が求められてくるが、例によって表現の自由と通信の秘密の問題に引き込まれる。凶器の規制に対しては自己決定権と過剰規制の弊害からの反対論、防犯カメラの増設についてはプライバシーと肖像権からの反対論といった感じで、評論家の議論は、事件そのものからどんどん離れてゆく。

自らの専門知識と研究実績によって事件を分析する評論家は、往々にして、献花台に無数の花束や供え物が手向けられている映像を嫌がる。同じように、被害者の友人が涙ながらに手を合わせて冥福を祈っている映像や、葬儀の映像なども嫌がる。いわく、「このような映像は科学的ではなく、社会的な意味がない。感情的であって、論理的ではない。ワイドショー的であって、学問研究に値しない。家族や友人の話などの異常な状況に置かれた人の話などを聞いていたら、冷静かつ客観的に社会を見る目が失われてしまう」。実証的な社会科学は、できる限り人間の感情を排して、物事を客観的に分析しようとする。これが評論家の視線である。しかし、評論家が献花台に置かれた無数の花束や供え物の映像を見た時の、その一瞬の心の動揺に注目してみればいい。そこには、客観的な理論では説明できないものへの恐怖がありはしないか。自らの手に負えないものへの畏怖がありはしないか。そして、評論家自らの名付けられない感情を、「被害感情」や「大衆の感情」に転嫁してはいないか。確かに献花台の無数の花束は、それ自体何の言葉も発しない。しかし、「自尊心が満足されない鬱積が社会に対する敵意となった」といった評論よりも、はるかに多くのことを無言で語る。評論家の視線で説明してスッキリする行為と、信じがたい不条理に直面して祈るしかない行為と、いったいどちらが現実的か。

(続く)

無差別と差別 平等と不平等

2008-06-09 13:51:07 | 国家・政治・刑罰
昨日、秋葉原で起きた通り魔事件で無差別に襲われた被害者たちは、救急病院に次々と運び込まれたが、夜までに7人が亡くなった。この「無差別」とは一体どのようなことか。それは、「差別」の反対である。それでは、「差別」の対義語は何か。それは「平等」である。そうだとすれば、偶然その場に居合わせた被害者は、平等に殺されたのか。そんなことはない。たまたまその日その時、その場所に居ただけであり、生と死の境は「不平等」である。「平等」は近代法の基本理念であり、世界人権宣言も日本国憲法もすべての人間の平等を宣言している。しかしながら、このような平板な横並びのモデルは、人間の人生の一回性、人間の生死の厳しさ、取り返しのつかなさを根底から捉えてはいない。「無差別」とは、「不平等」である。これは、論理的にメビウスの輪のようにねじれており、「一即多即一」の弁証法である。「差別をなくしましょう」という道徳的な掛け声は、無差別な凶行の前には無力である。

加藤智大容疑者は、社会に不満を持っていた。それは実際にその通りであろう。それはそれで紛れもない事実である。加藤容疑者を厳罰に処するだけで、この種の凶行が永遠になくなるのか。死刑によって、問題は根本的に解決するのか。もちろん解決などしない。問題の根本は、広く日本社会に充満する閉塞感、行き場のないルサンチマンと憤懣、若者に希望の見えない現代の格差社会、政治家でも手のつけられない構造的な病理、そのようなものの複合である。これらは、加藤容疑者を死刑にしたところでどうにもならない。しかし、だからこそ、その先を考えなければ話は進まない。殺された7人のほうも、おそらく現代社会に満足していたわけではない。この閉塞感だらけで先の見えない日本社会で、必死に自分の人生を生きていたはずである。そして、このような凶行に及ばず、一度きりの自分の人生の時間を生きていた。日本のほとんどの国民も同様である。それにもかかわらず、なぜ特定の個人である自分だけが、社会への不満への捌け口として、見ず知らずの赤の他人に命まで差し出さなければならないのか。何でよりによって、この他の誰でもない自分の人生を奪ったのか。

刑事裁判にできることは、加藤容疑者の行為の構成要件的な評価である。まずは客観的な殺害行為、そして主観的な殺意の認定、それから犯行の動機の解明である。容疑者は社会に不満を持っていた。このような犯罪を生む社会の構造が悪い。家庭や学校の生育環境に問題があり、同情すべき点もある。彼はむしろ現代社会の被害者なのではあるまいか。これも1つの答えである。しかし、あまりにも洞察が浅すぎ、鈍すぎる。視座を殺された側に移してみると、何の答えにもなっていない。現在の刑事裁判を支配する人権の観念は、あまりに特定のイデオロギーに限定されすぎた。人生の一回性、生命の不可逆性に対する驚きから人間の尊厳が導き出されたとするならば、公権力の行使か否かで一刀両断に割り切るだけでは話が済まないことは容易にわかる。人は他人を何人でも殺すことができる。これに対して、人が他人から殺されることは、一度しかできない。そうだとすれば、人生の一回性への尊厳の論理は、殺した側ではなく、殺された側により強く妥当する。加藤容疑者は7人の生命を奪っているが、7回死刑にすることはできない。これが何よりの証拠である。「1人殺して懲役10年、2人殺して無期懲役、3人殺して初めて死刑」という量刑相場は、同じ命に差をつけており、近代法の基本理念である「平等」の限界を示している。

被害者や遺族に対しては、1日も早く立ち直れるように、心のケアがなされるべきである。国家による金銭の補償が必要である。それはそれでいい。しかしながら、さらにその先に残る不条理感を掘り下げなければ、問題は隠蔽されてくすぶり続けるばかりである。愛する息子や娘が殺されて、親として最後に唯一してやれることは何か。息子や娘のために、せめてしてやれることは何か。それは、他でもないその息子や娘がこの世に存在したこと、その生命の重さを示すことである。これは通常、命の重さは命によってしか償えないという論理を瞬間的に正当化する。従って通常、親として息子や娘のためにしてやれる唯一のことは、犯人に死刑を望み、その死刑を見届けることである。死刑廃止によって命の重さが示されるのだと言われても、なぜ愛する息子や娘の生命が加藤容疑者の生命によって示されるのか。遺族はなぜ、よりによってこの世で一番憎い犯人である容疑者の生命の重さを示すことを強制されるのか。この人間の生死に関する哲学的な問いは、とても「厳罰感情」の一言で済まされるものではない。


池田小事件に次ぐ犠牲=通り魔事件の死者-秋葉原通り魔(時事通信) - goo ニュース

殺すのは誰でもよかった

2008-06-08 22:26:11 | 言語・論理・構造
今日、秋葉原の路上で通行人らを殺害して逮捕された加藤智大容疑者(25)は、「人を殺すために秋葉原に来た。世の中が嫌になった。誰でもよかった」と供述しているとのことである。その「誰でもよかった」ところの死者は7人、負傷者は10人となった。加藤容疑者にしてみれば、誰でもよかったのだから、その氏名も性別も年齢もどうでもいいはずである。生年月日も血液型も星座もどうでもいいはずである。ましてや、どこに住んでいるのか、家族はどのような人達なのか、どのような人生を送ってきたのか、どのような友人に囲まれていたのか、どのような夢を持っていたのかなど、ますますどうでもいい話である。誰でもいいからである。

それでは、「殺すのは誰でもよかった」としても、「殺されるのは誰でもよかった」と言えるのか。これは文法的に成立しない。誰でもいいならば、よりによって何で俺が選ばれてしまったのか。誰でもいいのならば、誰でもいいのだろう。だったら、俺を選ばなくてもいいではないか。「他の人が犠牲になるくらいであれば、俺が選ばれたことでその犠牲が防げたのだから、少しは俺も人の役に立った」、そんな綺麗事に耐えられる人はいない。誰でもよかったといって殺されたのであれば、俺はその誰でもいい人々のうちの1人に過ぎなかったのだろうか。「死」という人生の最も大事な最後の瞬間を、「その他大勢のうちの1人」として終えたのだろうか。俺の一度きりの人生の意味は何だったのか。死者の叫びは、生きている限り聞こえない。しかし、論理的に消し去ることだけはできない。

「世の中が嫌になった」。「生活に疲れた」。今後も加藤容疑者の取り調べは続き、動機の解明が試みられるだろうが、そのようなものは言語化できない。例によって刑法39条の心神喪失状態であり、責任能力がなかったという方向に話が進み、本質から遠ざかるだけである。このような通り魔的犯行の勘違いは2つある。1つは、社会や世間や世の中に対する不満や恨みを特定の個人に向けているという点である。殺されたほうからすれば、たまったものではない。俺は社会か。俺が世間の代表か。断じてそんなことはない。毎日毎日、1人の人間として一生懸命に生きている一個人だ。何でその個人が、世の中に対する不満を代表して殺されなければならないのか。こんな所でこんな形で一生を終えなければならないのか。全くもって筋が通らない。加藤容疑者のほうからは筋が通っても、7人のほうからは筋が通らない。それでも、7人はすでに殺されており、加藤容疑者は生きている以上、近代法における人権は加藤容疑者だけにある。

通り魔的犯行の勘違いは2つ目は、人間は「誰でもあり、もしくは誰でもない」のだから、「殺すのは誰でもよかった」といっても、「誰でもよくならず、もしくは誰かになってしまう」ということである。人間は生まれる時代も国も選べず、両親すらも選べず、気が付いたときには特定の性別と血液型と誕生日を強制されてこの世に生まれている。従って、自分は他の誰でもあり得た。それゆえに、自分は誰でもない。加藤容疑者も、別の通り魔事件の被害者にもなり得た。果たして、「殺すのは誰でもよかった」という文法が成立するのか。自分の人生はこうであり、これ以外ではあり得なかった。そうだとわかっているなら、あとは黙って生きるだけである。誰も彼もが私であり得るのだけれども、なぜだか私はここでこの人生をやっているのだとしたら、人生などというものは全く相対的なものである。生よりも死が善であり正義であると考えるならば、まずは誰でもよかったところの他人を殺すよりも、誰でもよかったところの自分を殺すほうが論理的に先である。


死者は女性1人男性6人、けが人の半数は背後から刺される(読売新聞) - goo ニュース

「誰でもよかった」過去にも=社会を逆恨み?-通り魔事件で容疑者(時事通信) - goo ニュース

永井均著 『<子ども>のための哲学』

2008-06-07 12:51:21 | 読書感想文
第2の問い 「なぜ悪いことをしてはいけないのか」 
四 「ぼくが感じていた問題のほんとうの意味」 

p.177~178より


青年の哲学に迷い込んだ一時期から脱するとき、ぼくは次のような2つの文体に不信感をもった。まず、ちょっとそのことに触れておこう。

ひとつは「私の考えでは」という文体だ。これは当時愛読していた評論家の文章にときどき(しかも重要な箇所で)出てくるものだ。それが出てくると議論についていけなくなることが多いと感じていたのだが、あるときぼくは、この文体に無意識のごうまんさを感じた。その場でその「考え」の道筋を述べてくれるならいっしょに考えよう。でも、そうでないならそんな「考え」などを論拠にされてはたまらん。そんなことができると思うのは、無意識の中に自分の地位を高く見積もっている証拠ではないのか。当時はそう感じた。

でも、今にして思えば、そんなことが問題なのではない。問題はむしろ、この「考え」の多くが実は感じられただけで考えられてはいないらしい、というところにあった。まさにそこをえぐって考えてもらわなくちゃ話にならないところに、実は考えられてはいない「私の考え」が出てきてしまうのだ。

もうひとつは「現代はかくかくの時代である、ゆえに、今やわれわれはしかじかしなければならない」という文体だ。人々は今がどういう時代かという話が好きだ。ぼくも好きだった。ぼくは今では時代診断というもの一般をくだらなく感じるけれど、まあそんなことはどうでもいい。重要なことは、今がどんな時代であったとしても、それだからといって、ぼくがしなければならないことなんかあるわけない、ということだ。ぼくはそういう文体を自分にも他人にも拒否することに決めた(他人に拒否するとは、内容のいかんにかかわらず、そういう文体で語る人の言うことには耳を傾けないということである)。


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世の中は、良く見ると(良く見なくても)この2つの文体であふれかえっている。国会論戦や選挙運動は言うに及ばず、経済界や教育界、地方公共団体や会社などの組織、テレビからネットなどのメディアに至るまで、この文体そのものが社会を形成している。ここでこの2つの文体を拒否してみると、世の中の圧倒的多数は、聞かなくても別に困らない言論であることがわかる。1週間前、1ヶ月前、1年前の新聞を見てみればわかる。世の中の大多数の議論に対して耳をふさぐことは難しいが、適当に聞き流すことならばできる。

「現代はインターネットの登場により、世の中に流れる情報量が爆発的に増えた。もはや情報化時代は終わり、現代は情報過剰時代である。われわれは、インターネットマーケティング、メディアの活用方法などを学ばなければならない。私は、この現代社会においては、国際的な視野でのコミュニケーション能力を強化することが重要であると考える」。このような意見を真面目に聞くことは非常に疲れる。21世紀の国際社会に生きる日本人に求められる資質はどうであれ、それを「この自分」がする義務はない。

受け入れられる死と受け入れられない死

2008-06-05 21:05:14 | 時間・生死・人生
この世の誰もが、生きている限り、1分1秒死に向かって歩んでいる。そして、社会という集団を形成している以上、誰しも長生きすればするほど他者の死の場面に立ち会うことになる。人間にとって、「生・老・病・死」の四苦は不可避的である。そうだとすれば、本来すべての死は受け入れられる死であり、受け入れられない死などないようにも見える。しかし、どんなに理屈をこねたところで、受け入れられないものは受け入れられない。現に死者が生きているような気がし、電話がかかってきたりチャイムが鳴ったりしたときに一瞬でも帰ってきたと感じるのであれば、それは紛れもない事実である。この世には、受け入れられない死というものが確実にある。これは論理の形式である。

受け入れられる死と受け入れられない死の違いは何か。これは、1人称→2人称という存在の形式に沿って考えれば、答えは自ずと出てくる。すなわち、亡くなった本人が死を受け入れていたか否かの違いである。「もはや十分に生きた。幸せな人生だった。この世に思い残すことはない」。本人がこのように思いながら亡くなったのであれば、周囲がその死を受け入れないことは、まさに故人の遺志に反することになる。どんなに周囲が理屈を重ねても、本人がそれでいいと言っているのだから、周囲の負けである。死んだのは本人であって、周りではないからである。周囲の人々にできることは、静かに冥福を祈り、故人を偲び、そして人一人の一生に対して畏怖と尊敬の念を持って接することだけである。

これに対して、亡くなった本人が死を受け入れていない場合には、周囲がこれを安易に受け入れることは、死者に対する冒涜となる。このような死は、生を全うしておらず、一生が完結していない。未来を奪われ、時間を奪われ、中途で終わっている。本人は、まさか自分が今日死ぬとは思っていなかった。自分が死んだことにすら気付かないうちに死んでいる。従って、本人が死を受け入れることなどできないのだから、周囲もその死を受け入れることができない。受け入れる義務などないし、受け入れてはならない。これは、1人称→2人称という存在の形式に基づく必然である。2人称はそれ自体独立で存在するのではなく、1人称との相関において、相互に反転して存在が許される。その内実をなすものは、共に生きた時間と記憶の共有である。

このような受け入れられない死は、いずれ受け入れられる死に変わるのか。これに一般的な解答を出すことはできない。遺されたほうも、いつでも自らの受け入れられない死の可能性と直面している以上、ゴールからの逆算というものができないからである。現実に、遺された者が何十年か後にいつの間にか愛する者の死を受け入れていたならば、それは結果的に正解である。また、遺された者が愛する者の死を一生受け入れられなかったならば、それも結果的に正解である。受け入れられるか否かの差異は、遺された者の選択であると同時に、死者自身の選択でもある。遺された者の中には死者の記憶があり、死者の中には遺された者の記憶があり、これが入れ子式となって無限に反転するからである。この1人称→2人称の反転に対しては、記憶を共有していない第三者が口を出す権利はない。一般的な理論というものが絶対に立てられないからである。