犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森達也著 『死刑』 プロローグ

2008-06-25 22:42:10 | 読書感想文
p.5~6より

首に縄をかけられたフセインは周囲の執行人や立会い人と言い合ったあとに、正面を向き目を閉じて、「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」とのイスラム教の信仰告白のフレーズを低く唱え始めるが、2回目のムハンマドを口にした瞬間に、激しい音と共に足もとの台座が外されて、その身体は真下に落下した。・・・その光の下に現れたフセインの顔は、絶命している表情には見えなかった。目はうっすらと開いていたし、口もとも微かに動いていたような気がする。


***************************************************

これは、2006年12月30日、バグダッドにおいて執行されたサダム・フセイン元大統領の死刑の様子を述べたものである。このような文章を読むと、人間の心はある独特の動きをする。これは、正確には記述できない。「死刑問題について触れたときの心の動き」としか言えない。そして人間は、このような死刑執行の描写から問題を立てること自体に漠然とした違和感を抱きつつも、それが言語化できない。誘導尋問に乗せられているようでもある。これは、「与えられた情報を鵜呑みにせず、何事も自分の頭で考えましょう」と言っていた人が、「罪刑法定主義と誤判の防止は近代司法の鉄則である」との言い回しに触れると、急に緊張して硬直してしまう状況と似ている。死刑は生死の問題であるが、制度の問題である。しかし、やはり最後は生死の問題であり、個人の心の問題は完全に消えることがない。

社会の制度の問題として理屈を詰めて行けば、どうしても「罪と罰」のうち、後半の「罰」ばかりに議論が集中し、前半の「罪」が逃げてしまう。「朝起きて、刑務官の足音が近づいてくる。それがちょっといつもと違って、どこかのドアの前で立ち止まって・・・ もし自分のドアの前で止まったら、それでもう人生が閉ざされる。その恐怖は凄まじいと思うんです」(p.50)。これは死刑執行を待つ死刑囚の恐怖を語ったものであり、死刑廃止論を強烈に正当化する論拠とされてきた。しかしながら、ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。そもそもの最初の殺人事件、何の罪もなく殺されたほうの無念はどこへ行ったのだ。過去の被害者の心理描写をするのか、将来の死刑囚の心理描写をするのか。この選択自体が、1つの隠された理論武装である。この政治的な覇権争いは、結論が先にある以上、論証によって事態が動くことはない。過去も将来も、すべては現在の別名である。

「死刑を廃止すべきか」という問いになかなか答えが出ないとなると、人間は技術的に問いを変更したがる。例えば、「なぜ死刑が廃止できないのか」。はたまた、「死刑は国家による新たな殺人行為ではないのか」。これらの問いは、最初の問いよりも下手である。問いはメタファーとしての構造を作る。そして、いったん構造を作ると、それは物理的な構造でないにもかかわらず、他の構造が見えなくなる。最初の殺人行為と、刑罰である死刑執行を同等に考え、単純に一括りに「人殺し」としてしまえば、簡単に答えが出る。しかし、その答えは、問いの形式によって逆算されていたものである。ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。やはり、軸足は哲学的な絶対不可解の問いに置かれなければならない。すなわち、「なぜ人を殺してはいけないのか」。

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - goo ニュース

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 その2

2008-06-25 21:37:35 | 読書感想文
「陸田真志 2通目の手紙」より

p.19~25より抜粋

私が殺した御二人は、私が何をしたとしても、絶対に戻ってくる事はありません。私は、その事実を深く認識しています。どんな善行を積もうと、どんな刑罰を受けようと、私の「罪」は消える事がありません。私は「人間社会」というものの中で、今まで生きる事を選び、この国を出て、その法律を捨てることもできたのに、それをせずこの国で、その法律を破ったのですし、私が自分で選んだ法律上の罰を受けるのは、至極当然の事で、それらも私の「贖罪」とは全く関係が無く、言ってしまえば、かすりもしないのです。無期刑としても、やはり同じ事です。

私が過去、どのような場面を見、体験したかを文にして、ある程度は他人に伝わるかも知れませんが、その時に私がどう思い、考えたかは「どうやっても伝わりはしない」。生前は確かに私と同じ、その仕事をしていた被害者の御二人も、私が殺さなければ、彼らの魂、精神も、その仕事の間違いにいつかは気付き、辞める日が来たかも知れない事を思えば、私が思う事によって在る彼らの魂のためにも、それはできません。その文章中にでてくる、被害者御二人の姿が、いかに事実とはいえ、今の御遺族の方々にとっては、目にしたくない、触れられたくない、考えたくない部分でしょうし、既に、御遺族の御心の中に在る被害者の姿を乱すのは、酷な事と私には思えるのです。

社会つまり皆は個の集まりである。皆とは自分と全ての個である。自己も個であり、己であると同時に皆である。そう知って「個=己」を本当に愛する事によって、皆を愛する事を知るしかないと思うのです。「己=個」を真に愛し、真に「個=己」にとってよい事をする、利する事によって「自己」を超える。それは、私がこの先よく生きていく為の指針とする物です。「善」を知ってこそ、自己の「悪」も認識できる。本当の「わるい」は、相手や他人だけでなく、自己にも「悪い」と知れば、ほっといても、皆、自分がかわいいのですから悪は起こりえないし、それが自然であると思うのです。


***************************************************

去る6月17日、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚と、上記の手紙を書いた陸田真志死刑囚の死刑が執行された。アムネスティ・インターナショナル日本は、同日、次のような抗議声明を出した。「今回の執行は前回の執行から約2カ月後に行われたものであり、日本が大量処刑への道を進めていることの証である。日本で死刑執行が増加していることに対し、アムネスティ・インターナショナルは深い失望と、極めて重大な懸念を表明する。宮崎さんも陸田さんも、判決確定から執行までの期間は2年半あまりで、従来になく、早い執行ペースである」。

宮崎死刑囚のほうは、死刑の日まで一言も反省や謝罪の言葉を発せず、さらには自らの死刑を怖がっていた。これに対して、陸田死刑囚のほうは、人を殺した経験という地位を自ら逆手に取って、自らが殺人の1つであるところの死刑に処される意味を問い続けた。宮崎死刑囚と陸田死刑囚を機械的に並列して抗議声明を出すことには、一体どのような意味があるのか。少なくとも、個々の死刑囚の遺志を汲んでいないことは確かである。


犯罪被害者の会、朝日新聞の「死に神」表現に抗議文(読売新聞) - goo ニュース