犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中野翠著 『よろしく青空』 「畏怖という感情」より

2008-06-18 22:37:59 | 読書感想文
p.110~

近頃はお葬式の際、亡くなった人の顔をカメラ付き携帯などで撮影する人が増えていて、葬儀関係者は注意すべきかどうか困惑しているという話。ある葬儀関係者は「人を悼む気持ちが荒廃しているのでは、と気になる。亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくないはず。撮影の可否まで遺言を取ることも検討しなければ」と語っているのだが、カメラ付き携帯になじんだ人たちの中には「記録に残したい」という気持ちのほうが強い人もいるらしい。

まったく恥ずかしいことだ。情けないことだ。棺の中の死者の顔に向かってケータイを突き出している人の姿を想像すると、「人間、そこまで鈍感になれるものか」と呆れ果ててしまう。死に顔を撮るな、というわけじゃあない。撮るなら心して撮れ、覚悟して撮れ、人の生と死の不思議に対して、その人の一生分の時間に対して、まっこうから向かい合う、それだけの強い意志を持って撮れ。スナップするな、謹写しろ。メモ代わりみたいな気分で撮ったりするな――と私は言いたいのだ。

私自身は、「死者には誰もかなわない」と思っているから、撮る気はまったくないけれど。生きている人間はどこかアヤフヤさを免れないけれど、死んだ瞬間に、そのアヤフヤさも絶対のものになるのだ。確かな輪郭を持った一生として感じられる。さらに「死」という人間にとっての大神秘を目の前にさせられるのだ。かなわない。たぶん、そういう感情を「畏怖」というのだろう。カメラ付き携帯電話は確かにすぐれた便利な発明なのだろうが、明らかに人々を行儀悪く、鈍感にした。便利さや手軽さに、人の心が振り回されているのだ。


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秋葉原の事件では、刺された人が倒れているところに携帯電話のカメラを向けている野次馬が大勢いた。それどころか、携帯で実況中継に夢中になっている人も沢山いた。赤の他人だからそのようなことができるのだろう、身内ならばまさか携帯で写真は撮れないだろうと思っていたら、今やそうでもないようである。人生の重さとケータイの軽さ。生死の重厚さと写メールの手軽さ。電子機器が便利になったからといって、社会が良くなるとはかぎらない。それどころか、文明の発達は、人々を不幸にするところがある。

事件現場では、被害者を必死に介抱している人がいた。それどころか、被害者を助けに行って、自分まで刺された人もいた。介抱に走った人は、誰からの強制でもなく、一切の損得勘定を持たずに、そのような行為に向かった。これは人間の品格である。他方、どうしても携帯で実況中継したくなる人は、そうするしかなかった。これも人間の品格である。死は誰にとっても先にあるものではなく、今ここにあるものである。他者の生死の危機に直面して、携帯での実況中継に夢中になることに一抹の後ろめたさを感じたならば、それが本当の恥である。その恥すらも感じない人生は、人生の名に値しない。

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