犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者側から見た加害者の再犯

2008-06-04 22:34:04 | 実存・心理・宗教
6月1日、元小学校教諭の渡辺敏郎容疑者(35)が、世田谷区代沢の区立小学校の校庭に無断侵入して児童を盗撮し、建造物侵入の現行犯で逮捕された。渡辺容疑者は、交通事故死した子供の写真をホームページに無断掲載した児童ポルノ禁止法違反などの罪で、昨年7月、東京地裁から懲役2年6月・保護観察付き執行猶予5年の有罪判決を受けていた。刑事政策的には、同じような犯罪を何回繰り返そうとも、答えは決まっている。すなわち、「改善更生・社会復帰」である。これが近代法の目的刑の趣旨であり、目的論的な思考である。この世に立ち直れない人間などいない。この世に必要のない人間など一人もいない。我々はどんなに裏切られても裏切られても、犯罪者の立ち直りと社会復帰を支援することが大切である。このような更生の論理は、何十回犯罪を繰り返そうとも、無限に可能である。それゆえに、現代の刑事政策学は、その無限性を断ち切る死刑を何としても拒絶しようとしてきた。

これまでは、加害者の再犯について、被害者側の視点から述べられた理論は少なかった。ならば、述べるしかない(以下、刑法56条1項の再犯加重に限らず、一般的な意味で「再犯」を用いる)。加害者の更生と社会復帰を何よりも重視する目的刑の論理によれば、最初の犯罪の被害者は、加害者の更生のためにその人生を供したことになる。特に、生命を奪われた者は、加害者の更生のためにこの世に生まれてきたという役割を強制される。このような論理は、理不尽な犯罪被害に遭った側や遺族には到底耐え難い。しかし、この法治国家の下ではどうにもならず、断腸の思いでそれに従うことになる。加害者も「二度と過ちは繰り返しません」「被害者も分も含めて2人分の人生を生きます」と言っているし、せめて立派な人間になって社会に貢献してほしい。そうでないと、被害者が報われない。近代法の目的刑において、被害者への多大な犠牲の強制を正当化できるのは、この点が最後まで貫徹された場合のみである。

加害者の再犯によって、被害者に強いた犠牲を正当化する根拠は、すべてガラガラと崩れ落ちる。被害者はこの程度の人間に人生を供してしまったのか。被害者は何のためにこの世に生まれてきたのか。被害者や遺族は加害者に崩された人生を何とか立て直そうとしているのに、加害者の再犯によって、またその人生を崩される。それどころか、加害者は、さらに更生と社会復帰の論理によって、一方的に被害者の人生を崩そうとする。「今度こそ、本当に立ち直ります」「絶対に、これを最後にします」といった反省の弁は、論理的に無限に可能である。最終的に社会復帰という目的がある以上、加害者に有利な理屈はいくらでも考え出せる。実刑にすれば、社会からの偏見も強くなり、かえって再犯を招くのではないか。刑が長期化すればするほど、ますます社会から孤立し、立ち直りを阻害するのではないか。そこまで言うのであれば、まずは歴代の被害者のところを訪れて、雪だるま式の利息を含めて謝罪して回らなければならないはずである。

一般予防と特別予防、改善更生と社会復帰、このような目的論的な枠組みは、個々の人生の文脈を無視してきた。人権論が一種の全体主義になってしまったからである。また、目的刑論は功利主義の思想でもある以上、刑罰は害悪かつ人権侵害であると位置づけられる。従って、加害者のほうも心から反省する義務はなく、一刻も早く刑務所から出たいと考える権利がある。執行猶予中も、反省の日々を送る義務はない。そして、社会内においては自らの欲望を追求する権利があるとなれば、加害者が再犯をするのも当然である。これに対して、被害者のほうは、加害者の再犯によって、再び絶望のどん底に突き落とされる。最初の裁判は何のための儀式だったのか。何のために多大な時間とエネルギーを消費し、長々と加害者の反省の弁を聞かされ、軽い刑に渋々納得したのか。検察官への要求も取り下げたのか。これでは、被害者は自らの運命を責めることによって、現実と折り合いをつけるしかない。この自分への攻撃は、一般に言われるような甘いナルシズムではなく、実存の深淵である。

加害者の再犯は、被害者の二次的被害の延長である。いつになったら二次的被害が終わるのかという感じである。ここまで言語道断の落胆と失望が重なれば、被害者は自らが求めているものと現実とのギャップが大きくなりすぎ、もう何も期待しないのが安全だということにもなりかねない。近代司法と加害者の力学に取り込まれ、防御の姿勢を採ってしまうということである。被害者側が厳罰化を主張するのは、あまりにも近代法の目的論的な思考の負の部分を一方的に背負わされてきたからであり、論理的には当然の要請である。それでも、「加害者を厳罰にすれば済むのでしょうか」、「厳罰化されれば満足なのでしょうか」などと言われたら、このように答えるしかない。「済むわけがない。何十回、何百回厳罰に処しても、済むわけがない」。