犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 その1

2008-06-19 19:33:01 | 読書感想文
一昨日、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚(45)の死刑が執行された。宮崎死刑囚は捜査や公判で不可解な供述を繰り返し、詳しい動機や背景も全く語らず、死刑の日まで反省や謝罪の言葉もなかった。それどころか、4人の被害者の死の恐怖には一言も触れず、自らの死の恐怖のみを根拠に絞首刑の残虐性を唱え、薬物使用の方法を主張していた。「死刑廃止を推進する議員連盟」は、死刑の確定からまだ2年5ヶ月である点を強調していたが、20年経ってもこの調子では、死刑の執行を先延ばしにしたところで、常識的に見ても何も得るものはない。

一昨日は3人の死刑が執行されたが、宮崎死刑囚以外の2人のうち、1人が陸田真志死刑囚(37)である。議員連盟の亀井静香会長は、「新たに3人の命が国家権力に消された。何か国民の幸せにつながっていくものが生まれたのか」と批判していたが、宮崎死刑囚にとってはともかく、陸田死刑囚にとっては、この批判は的外れである。下記に引用した陸田死刑囚の言葉は、今日6月19日現在、この世の人間の言葉ではない。そして、往復書簡の相手方である池田晶子氏も、もはやこの世の人間ではない。しかし、なぜかそこに変わらず、その人の言葉がある。当たり前のことであるが、本の内容のほうは、陸田死刑囚の死刑執行の瞬間の前と後で、全く変わっていない。


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「陸田真志 1通目の手紙」より (p.13~17)

「殺人者」という事実。その後の自分の行動。「人間のクズ、いや俺は人間ではない」とひたすら自分が嫌になり、落ち込みました。しかし、それよりも自身を卑下したのは、2人も人を殺しておきながら、それでも、まだ、「自分は死刑になりたくない」と考える自分がいる事でした。これは、二重の罪悪感となりました。自殺を考えても、「それは、今の悩み、辛さから逃げて、又、他の人間(拘置所の職員の方など)に新たに迷惑を掛ける事だ」そう思えてできず、自殺しないでいると、「他人を殺しておいて自分は生きていたいのか」と自分自身を罵倒する毎日でした。

「精神病になった。国家の個人への弾圧だ」などと、被害者面をする人間や懲役囚がいますが、精神性を重んじ、自己に恥じる事のない人間であるなら、どこに置かれても、何でもない事だと思うのです。「犯罪をやるか、やらないかは最終的には本人の意志だ。今ある自分は、全て自分が選択してきた結果だ」 それがわかりすぎる程、私には、わかっていたのです。PTSDを病んでいる人達が犯罪に走らず、自己と闘っている事を考えれば、何の言い訳にもならない事。家庭や貧困、社会を、自分の犯罪の原因にする(永山死刑囚などの)人間は、自らの罪悪を認める事の怖さから、何か他の物のせいにしようとしているだけだ。その事が、心の奥ではわかっていたのです。

「死を恐れず、下劣である事を恐れる」、それを知り、又、獣としか思えなかった私にも善を求める心がある事、あった事がわかり、やっと自分自身を卑下する考えから解放されました。今、独房においても全くの自由を得ていると信じられます。おかげでそれまで、公判で少しでも自分にとって有利な事を言うのは、それが事実であっても、「死刑を免れようという己の弱さでは」と悩む事もなくなったし、逆に不利な事も死刑を恐れる事なく答弁できたし、裁判官にも、「死刑になってもならなくても、よく生き、死んでいく事、正しくある事が、私がこの先できる唯一の償ないだ」と言う事ができました。そして、そのようにこの先、生きて死んでいける、その事に大きな喜びと価値を感じております。