犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

上野千鶴子著 『おひとりさまの老後』

2008-06-23 22:08:15 | 読書感想文
現代社会は個人主義であり、個性尊重が建前とされている。そして、個人としての自立が求められ、プライバシーの尊重が叫ばれている。その割には、老いも若きも孤独や孤立というものを非常に恐れるが、これは無理な注文である。上野氏の指摘するとおり、「人間は孤独である。覚悟して生きろ」というしかない。高齢者の一人暮らしは寂しいものだと相場が決まっているが、本人が好きで悠々自適の生活をしているならば、周囲のレッテル張りの方が余計なお世話である。これは、孤独死というレッテル張りも同様である。本人がそれを望んでいる限り、孤独死を防ぐためのあれこれは、プライバシーの侵害となる。

老後の心配と死後の心配は、その質が異なる。老後の心配は、年金の問題や病気の問題に置き換えられることが多いが、突き詰めれば「死に向き合うこと」への心配である。これは、どうしても予定通りにはいかない。それにも関わらず、世の中は老後の不安を煽るメッセージにあふれており、完全に自己目的化して空転している。年金について政府を批判することによって気を紛らわせ、「死に向き合うこと」を先送りにするという本末転倒である。その意味では、むしろ死後の心配のほうが救いがある。公証役場で公正証書遺言を作って、家庭裁判所で相続人の廃除をして、相続税対策をして、お葬式とお墓の手筈を整えれば、それ以上のことはどうしようもないからである。

上野氏が提唱する「おひとりさまの死に方5カ条」は、非常に実用性がある。特に、身辺整理は大切である。死は極めて形而上の出来事であるが、一度生まれた者はこの世で生きているという存在の形式から逃れられない限り、死は形而下の出来事でもある。どんなに「死とは何か」について考え抜き、自分が死んだ後のことはどうでもいいと宣言した大哲学者でも、いきなり余命3ヶ月だと宣告されれば、とりあえずは身辺整理を始めるはずである。これは理屈ではない。恥ずかしいことが書いてある日記は捨て、不倫の証拠となるような写真は捨て、メールも削除し、恥ずかしい本やらDVDは処分するのが人間というものである。人間は形而上の死に向き合うためには、まずは形而下の死の側面を粛々と処理しておく必要がある。

死という経験は、誰にも平等に訪れるものであるが、他の誰とも分かち合うことのできないたった1人の経験である。自分の代わりに他人は死んでくれないし、自分も他人の代わりに死んであげることはできない。その意味では、死の瞬間に何人の人に看取られているかという問題は、上野氏が述べるとおり、それほど大した話ではない。これは、人間は一度しか生まれられないし、一度しか死ねないという回数の問題と捉えるとわかりやすい。Only one, Only once. 時間性の中で、すべての人間は孤独に生まれ、孤独に死ぬしかない。これは、集団の中で誰かが孤立しているといった通常の意味の孤独の概念よりもはるかに厳しいが、その分だけ救いもある。生死の前にはすべての集団も幻想であり、すべての人間がお互いを孤独であると知ることによって、逆説的に孤独が癒されるからである。