犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

受け入れられる死と受け入れられない死

2008-06-05 21:05:14 | 時間・生死・人生
この世の誰もが、生きている限り、1分1秒死に向かって歩んでいる。そして、社会という集団を形成している以上、誰しも長生きすればするほど他者の死の場面に立ち会うことになる。人間にとって、「生・老・病・死」の四苦は不可避的である。そうだとすれば、本来すべての死は受け入れられる死であり、受け入れられない死などないようにも見える。しかし、どんなに理屈をこねたところで、受け入れられないものは受け入れられない。現に死者が生きているような気がし、電話がかかってきたりチャイムが鳴ったりしたときに一瞬でも帰ってきたと感じるのであれば、それは紛れもない事実である。この世には、受け入れられない死というものが確実にある。これは論理の形式である。

受け入れられる死と受け入れられない死の違いは何か。これは、1人称→2人称という存在の形式に沿って考えれば、答えは自ずと出てくる。すなわち、亡くなった本人が死を受け入れていたか否かの違いである。「もはや十分に生きた。幸せな人生だった。この世に思い残すことはない」。本人がこのように思いながら亡くなったのであれば、周囲がその死を受け入れないことは、まさに故人の遺志に反することになる。どんなに周囲が理屈を重ねても、本人がそれでいいと言っているのだから、周囲の負けである。死んだのは本人であって、周りではないからである。周囲の人々にできることは、静かに冥福を祈り、故人を偲び、そして人一人の一生に対して畏怖と尊敬の念を持って接することだけである。

これに対して、亡くなった本人が死を受け入れていない場合には、周囲がこれを安易に受け入れることは、死者に対する冒涜となる。このような死は、生を全うしておらず、一生が完結していない。未来を奪われ、時間を奪われ、中途で終わっている。本人は、まさか自分が今日死ぬとは思っていなかった。自分が死んだことにすら気付かないうちに死んでいる。従って、本人が死を受け入れることなどできないのだから、周囲もその死を受け入れることができない。受け入れる義務などないし、受け入れてはならない。これは、1人称→2人称という存在の形式に基づく必然である。2人称はそれ自体独立で存在するのではなく、1人称との相関において、相互に反転して存在が許される。その内実をなすものは、共に生きた時間と記憶の共有である。

このような受け入れられない死は、いずれ受け入れられる死に変わるのか。これに一般的な解答を出すことはできない。遺されたほうも、いつでも自らの受け入れられない死の可能性と直面している以上、ゴールからの逆算というものができないからである。現実に、遺された者が何十年か後にいつの間にか愛する者の死を受け入れていたならば、それは結果的に正解である。また、遺された者が愛する者の死を一生受け入れられなかったならば、それも結果的に正解である。受け入れられるか否かの差異は、遺された者の選択であると同時に、死者自身の選択でもある。遺された者の中には死者の記憶があり、死者の中には遺された者の記憶があり、これが入れ子式となって無限に反転するからである。この1人称→2人称の反転に対しては、記憶を共有していない第三者が口を出す権利はない。一般的な理論というものが絶対に立てられないからである。

「死刑廃止の代償」負う国民

2008-06-05 01:51:43 | 時間・生死・人生
6月4日付け 読売新聞朝刊 文化欄
東京大学・井上達夫教授 『「死刑の代償」負う国民』を参考に

20××年×月、通り魔事件で過去最悪の15人を殺害した被告人に対して、終身刑の判決が下された。死刑が廃止されて終身刑が新設され、我が国で初めて下された終身刑の判決である。このような犯人も死刑にできないのかという世論に対し、死刑廃止論者からは、「せっかく死刑を廃止したのにまた復活をするのか」という怒りを含んだ反問が向けられる気配すら濃厚である。しかし、このような状況だからこそ、死刑の復活に反対する人々に、私は冷静な再考を促したい。

まず、死刑廃止の倫理的代償を直視しよう。裁判制度は神ならざる人間が運用する以上、誤判の可能性は排除できず、「死に値する極悪人の生命」を保護してしまう可能性をゼロにできない。さらに、終身刑制度の適用者・執行者が「司法的終身刑」への加担により負う倫理的な傷がある。終身刑の執行は、ときに己の罪を全く改悛していない者の生存であり、しかも被害者の死と遺族の生涯の苦しみの上に成り立つ生存の国家的な保障である。その倫理的な傷は一層深い。この傷は、民主的国家においては、司法的生存を要請する法律を立法府に制定・存続させている主権者国民も負う。多くの国民は、裁判員制度の下での被害者遺族の意見陳述に直面して、この傷を自覚することとなった。

他方、死刑廃止の主な倫理的効用とされてきたのは犯罪抑止効果の欠如であり、抑止力論については実証的研究がなされてきた。しかし、実際に死刑廃止による不条理が表面化するに至って、抑止力ではなく、人を殺したのに自分だけ生きているのかという純粋な生命倫理がいまや主たる論拠になりつつある。以上を踏まえれば、問われるべき問いは、「終身刑が死刑と同等の抑止力を持つのか」ではなく、「殺人の1つである死刑が悪であるならば最初の殺人も悪であり、最初の殺人が善であるならば殺人の1つである死刑も善なのではないか」である。また、「この世で最高の罪である人殺しが倫理的に許されてしまえば、その下の罪である脱税や汚職や贈収賄が許されないという倫理がすべて崩壊してしまうのではないか」である。裁判員制度が実施され、意見陳述で「死刑にして下さい」と述べる遺族の前で終身刑を言い渡すことになった国民1人1人に、この問いを真摯に問うことを私は求めたい。

遺族が死刑廃止によって受けた悲憤の根底にあるのは、犯人は種々の手続的保護をうけ更生の配慮までされ、国家によって一生涯天寿を全うすることが保障されているのに、殺された被害者は二度と戻ってこないことにある。かつて本村洋氏は、「できれば早く墓前に報告してあげたい。ひとつの区切りがついたと思っているので、判決の内容は伝えたい」と指摘し、被害者の死は犯人の死刑によって報われる側面があることを指摘し、死刑制度は感情ではなく論理の要請であると述べたことがあったが、被害者と遺族の人権はまさにこのような施策でこそ保障すべきものである。それは、死刑制度の廃止によってもたらされた復讐心の呪縛から遺族を解放するためにも必要である。