犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者の視線 評論家の視線 (前半)

2008-06-11 16:43:49 | 時間・生死・人生
「二度とこのような事件を起きないようにするために、私達はどうすればよいのか」。このような問いは、今回の秋葉原の通り魔のような凶悪な事件が起きるたびに繰り返され、そのたびに虚しさが倍増する。そして、その分だけ言葉が軽くなる。この問いが虚しくなるのは、社会に対して政治的に問うているからであり、「今後もこのような事件は起きるに決まっている」という常識に安住しているからである。この問いの成立は、厳しい逆説を経たものではなければならない。もしも、「私達は事件を少しでも減らすためにはどうすればよいのか」と問い直せば、問いとしては正確になる。しかしながら、そこにおいては、被害者の死は1つの統計の数値となってしまう。理不尽に殺された被害者の論理としては、「犠牲者を減らす」ではなく、「犠牲者をなくす」でなければならない。実際に、「二度このような事件を起きないようにする」という決意が広く共有され、無差別の凶行を計画していた人がそれを思い止まれば、潜在的に事件の数は減る。このような効果は、現に飲酒運転の撲滅運動にも見られる。人間には、「起きるはずだったのに起きなかったこと」は見ることができないが、その起きるはずだった事件は、確かに二度と起きていない。

悲惨な事件が起きるたびに、評論家の分析が始まるのはいつものことである。加藤容疑者本人は、「世の中が嫌になった」「仕事のことでムシャクシャしていた」「自分の境遇に不満があった」程度のことしか供述していないが、評論家はこれを丁寧にわかりやすく解説してくれる。自分の存在価値を知らしめたいという気持ちがあったのではないか。自尊心が高すぎて、それが満足されない鬱積が社会に対する敵意となったのではないか。精神的にも経済的にも未熟な成人が増えてきたのではないか。色々と結果論で分析している本人は大真面目であるが、理論の巧拙の競い合いとなれば、これは無益どころか有害である。容疑者の「世の中が嫌になった」との供述を、「世の中に自分の存在価値を知らしめたくなった」と言い換えたところで、一体何をわかったことになるのか。それは、あくまでも評論家がそれぞれの仕方によって理解しているだけの話であり、視聴者はそのように理解する評論家の理解の仕方を見せられているだけである。そこまで自信があるのならば、結果論で解説するのではなく、事前に予知して防止してもらいたくもなる。

事件直後の混沌とした人々の心理状態は、現代社会の強力な磁場形成によって、特定の形にはめられて行く。分析すればするほど問題は根深くなり、社会、時代、構造といったところまで話が広がり、「真の犯人捜し」が始まる。こうなると、話が無限に大きくなりすぎて、とても答えなど出なくなる。まず、事件の9日前、容疑者が職場の現場責任者から解雇の見通しを通告されていたことが判明すると、根本的な原因は派遣労働のシステムであって、今の政府与党が悪いのだという意見も出てくる。しかし、派遣労働の問題は今に始まったことではなく、今後も何十年(何百年)かかるかわかったものではない。また、事件の1週間前に容疑者がネット論争で激怒していたことが判明すると、ネット社会の病理が遠因であるとされるが、これも今に始まったことではない。容疑者が当日も携帯電話の掲示板から犯行の予告と実況中継をしていたことが判明すると、サイトの監視による犯行の予防が求められてくるが、例によって表現の自由と通信の秘密の問題に引き込まれる。凶器の規制に対しては自己決定権と過剰規制の弊害からの反対論、防犯カメラの増設についてはプライバシーと肖像権からの反対論といった感じで、評論家の議論は、事件そのものからどんどん離れてゆく。

自らの専門知識と研究実績によって事件を分析する評論家は、往々にして、献花台に無数の花束や供え物が手向けられている映像を嫌がる。同じように、被害者の友人が涙ながらに手を合わせて冥福を祈っている映像や、葬儀の映像なども嫌がる。いわく、「このような映像は科学的ではなく、社会的な意味がない。感情的であって、論理的ではない。ワイドショー的であって、学問研究に値しない。家族や友人の話などの異常な状況に置かれた人の話などを聞いていたら、冷静かつ客観的に社会を見る目が失われてしまう」。実証的な社会科学は、できる限り人間の感情を排して、物事を客観的に分析しようとする。これが評論家の視線である。しかし、評論家が献花台に置かれた無数の花束や供え物の映像を見た時の、その一瞬の心の動揺に注目してみればいい。そこには、客観的な理論では説明できないものへの恐怖がありはしないか。自らの手に負えないものへの畏怖がありはしないか。そして、評論家自らの名付けられない感情を、「被害感情」や「大衆の感情」に転嫁してはいないか。確かに献花台の無数の花束は、それ自体何の言葉も発しない。しかし、「自尊心が満足されない鬱積が社会に対する敵意となった」といった評論よりも、はるかに多くのことを無言で語る。評論家の視線で説明してスッキリする行為と、信じがたい不条理に直面して祈るしかない行為と、いったいどちらが現実的か。

(続く)