犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均著 『<子ども>のための哲学』

2008-06-07 12:51:21 | 読書感想文
第2の問い 「なぜ悪いことをしてはいけないのか」 
四 「ぼくが感じていた問題のほんとうの意味」 

p.177~178より


青年の哲学に迷い込んだ一時期から脱するとき、ぼくは次のような2つの文体に不信感をもった。まず、ちょっとそのことに触れておこう。

ひとつは「私の考えでは」という文体だ。これは当時愛読していた評論家の文章にときどき(しかも重要な箇所で)出てくるものだ。それが出てくると議論についていけなくなることが多いと感じていたのだが、あるときぼくは、この文体に無意識のごうまんさを感じた。その場でその「考え」の道筋を述べてくれるならいっしょに考えよう。でも、そうでないならそんな「考え」などを論拠にされてはたまらん。そんなことができると思うのは、無意識の中に自分の地位を高く見積もっている証拠ではないのか。当時はそう感じた。

でも、今にして思えば、そんなことが問題なのではない。問題はむしろ、この「考え」の多くが実は感じられただけで考えられてはいないらしい、というところにあった。まさにそこをえぐって考えてもらわなくちゃ話にならないところに、実は考えられてはいない「私の考え」が出てきてしまうのだ。

もうひとつは「現代はかくかくの時代である、ゆえに、今やわれわれはしかじかしなければならない」という文体だ。人々は今がどういう時代かという話が好きだ。ぼくも好きだった。ぼくは今では時代診断というもの一般をくだらなく感じるけれど、まあそんなことはどうでもいい。重要なことは、今がどんな時代であったとしても、それだからといって、ぼくがしなければならないことなんかあるわけない、ということだ。ぼくはそういう文体を自分にも他人にも拒否することに決めた(他人に拒否するとは、内容のいかんにかかわらず、そういう文体で語る人の言うことには耳を傾けないということである)。


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世の中は、良く見ると(良く見なくても)この2つの文体であふれかえっている。国会論戦や選挙運動は言うに及ばず、経済界や教育界、地方公共団体や会社などの組織、テレビからネットなどのメディアに至るまで、この文体そのものが社会を形成している。ここでこの2つの文体を拒否してみると、世の中の圧倒的多数は、聞かなくても別に困らない言論であることがわかる。1週間前、1ヶ月前、1年前の新聞を見てみればわかる。世の中の大多数の議論に対して耳をふさぐことは難しいが、適当に聞き流すことならばできる。

「現代はインターネットの登場により、世の中に流れる情報量が爆発的に増えた。もはや情報化時代は終わり、現代は情報過剰時代である。われわれは、インターネットマーケティング、メディアの活用方法などを学ばなければならない。私は、この現代社会においては、国際的な視野でのコミュニケーション能力を強化することが重要であると考える」。このような意見を真面目に聞くことは非常に疲れる。21世紀の国際社会に生きる日本人に求められる資質はどうであれ、それを「この自分」がする義務はない。