犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

殺すのは誰でもよかった

2008-06-08 22:26:11 | 言語・論理・構造
今日、秋葉原の路上で通行人らを殺害して逮捕された加藤智大容疑者(25)は、「人を殺すために秋葉原に来た。世の中が嫌になった。誰でもよかった」と供述しているとのことである。その「誰でもよかった」ところの死者は7人、負傷者は10人となった。加藤容疑者にしてみれば、誰でもよかったのだから、その氏名も性別も年齢もどうでもいいはずである。生年月日も血液型も星座もどうでもいいはずである。ましてや、どこに住んでいるのか、家族はどのような人達なのか、どのような人生を送ってきたのか、どのような友人に囲まれていたのか、どのような夢を持っていたのかなど、ますますどうでもいい話である。誰でもいいからである。

それでは、「殺すのは誰でもよかった」としても、「殺されるのは誰でもよかった」と言えるのか。これは文法的に成立しない。誰でもいいならば、よりによって何で俺が選ばれてしまったのか。誰でもいいのならば、誰でもいいのだろう。だったら、俺を選ばなくてもいいではないか。「他の人が犠牲になるくらいであれば、俺が選ばれたことでその犠牲が防げたのだから、少しは俺も人の役に立った」、そんな綺麗事に耐えられる人はいない。誰でもよかったといって殺されたのであれば、俺はその誰でもいい人々のうちの1人に過ぎなかったのだろうか。「死」という人生の最も大事な最後の瞬間を、「その他大勢のうちの1人」として終えたのだろうか。俺の一度きりの人生の意味は何だったのか。死者の叫びは、生きている限り聞こえない。しかし、論理的に消し去ることだけはできない。

「世の中が嫌になった」。「生活に疲れた」。今後も加藤容疑者の取り調べは続き、動機の解明が試みられるだろうが、そのようなものは言語化できない。例によって刑法39条の心神喪失状態であり、責任能力がなかったという方向に話が進み、本質から遠ざかるだけである。このような通り魔的犯行の勘違いは2つある。1つは、社会や世間や世の中に対する不満や恨みを特定の個人に向けているという点である。殺されたほうからすれば、たまったものではない。俺は社会か。俺が世間の代表か。断じてそんなことはない。毎日毎日、1人の人間として一生懸命に生きている一個人だ。何でその個人が、世の中に対する不満を代表して殺されなければならないのか。こんな所でこんな形で一生を終えなければならないのか。全くもって筋が通らない。加藤容疑者のほうからは筋が通っても、7人のほうからは筋が通らない。それでも、7人はすでに殺されており、加藤容疑者は生きている以上、近代法における人権は加藤容疑者だけにある。

通り魔的犯行の勘違いは2つ目は、人間は「誰でもあり、もしくは誰でもない」のだから、「殺すのは誰でもよかった」といっても、「誰でもよくならず、もしくは誰かになってしまう」ということである。人間は生まれる時代も国も選べず、両親すらも選べず、気が付いたときには特定の性別と血液型と誕生日を強制されてこの世に生まれている。従って、自分は他の誰でもあり得た。それゆえに、自分は誰でもない。加藤容疑者も、別の通り魔事件の被害者にもなり得た。果たして、「殺すのは誰でもよかった」という文法が成立するのか。自分の人生はこうであり、これ以外ではあり得なかった。そうだとわかっているなら、あとは黙って生きるだけである。誰も彼もが私であり得るのだけれども、なぜだか私はここでこの人生をやっているのだとしたら、人生などというものは全く相対的なものである。生よりも死が善であり正義であると考えるならば、まずは誰でもよかったところの他人を殺すよりも、誰でもよかったところの自分を殺すほうが論理的に先である。


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