犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『異見あり』

2008-06-14 21:22:40 | 読書感想文
「ドーピング禁止はスポーツにおける偽善である」より (p.73~)


なぜドーピングはいけないのか。テレビを見ていたら、オリンピック用のトラックを開発している人が紹介されていた。ポリウレタンのみごとなトラックである。層構造になっており、たいへん走り良さそうである。実際に走り良さを目的として開発されたものであろう。このように、トラックは徹底的に人工化する。走り良さの限りを尽くす。だけど身体はいじってはいけない。トラックには小石も落ちていない。しかも徹底的に走り良いように改造してある。そういう場所に、人間の身体だけ「自然のまま」で置いておく。そんなことができるわけがない。

スポーツに潜む偽善をもっともよく象徴するのが、オリンピックである。職業野球の選手であるマグワイアが喝采を受けたのは、人びとがむしろ潜在的にそれに気づいているためかもしれない。どうやったっていい。どうせ打つなら、徹底的に打ってみろ。これは現代の日本人には、おそらくいちばん欠けた感覚である。べつに勝たなくてはいけないこともない。しかし人生は勝負をどうしても含んでいる。どうせ勝負の世界に入るなら、半端にやるな。それなら、ホームランをたくさん打つほうがいいのである。


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これはちょうど10年前の1998年の文章であるが、ここのところの「スピード社水着問題」を予言しているかのようである。日本水泳連盟の公認のメーカーは、ミズノ、アシックス、デサントの3社であり、スピード社は公認メーカーではないが、現場からは「このままではメダルは獲れない」という声があがっている。北京オリンピック開幕を3ヶ月後に控えてのドタバタ劇であり、企業の論理に翻弄され、選手たちは混乱の中で直前練習をしなければならない状況となっている。北島康介選手は、水着の話題ばかりが騒がれる風潮に対して、先週のジャパンオープンに「泳ぐのは僕だ」と3ヶ国語で書かれたTシャツを着て決勝に現れた。そしてレース後には「水着が泳ぐわけじゃない。選手が主役でなければならない」と強く訴えた。

ジャパンオープンでは次々と日本新記録が誕生したが、このような素直に喜べない記録ラッシュも珍しい。北島選手に限らず、見ているほうも心中複雑である。アナウンサーが「日本新記録!」と絶叫したところで、その奥にある恐ろしいのものを隠蔽しているだけであり、ますます白々しくなる。果たして人間が新記録を出しているのか。それとも水着が新記録を出しているのか。後者であれば、それはお金が新記録を出していることと等しくなる。ミズノ、アシックス、デサントの3社がスピード社に匹敵する技術を開発し、オリンピックでメダルが取れるようになれば、とりあえず表面上の問題は解決する。しかし、「泳ぐのは僕だ」という指摘の恐ろしさを消すことはできない。水着の改良と、肉体のドーピングとは、構造的な類似点が非常に多い。