犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人を裁くな

2007-06-17 13:20:24 | 実存・心理・宗教
新約聖書には「人を裁くな」という一節がある(ルカ伝6章37節~42節)。それではいったい裁判所はどうすればいいのか。冗談のような悩みであるが、この問いの中にニーチェの洞察の鍵がある。「人の支配から法の支配へ」という自然法の思想は、キリスト教の道徳をそのまま引き継いでいる。

一神教における絶対的な神は、人間に対して高圧的に君臨する。不完全な人間は、神の前では卑小であるという位置づけである。これと同じように、人権思想における絶対的な人権は、人間に対して高圧的に君臨する。人間が神の影響を離れて人間の理性を取り戻したにもかかわらず、やはり一神教的な絶対性を払拭できていない。ここでは、不完全な人間は、人権の前では卑小であるという位置づけがなされる。

「人を裁くな」という命令は、自然法の思想によって、神の命令から人間の理性による命令へと変更される。このような位置づけの下において、人間が人間を裁くことができる条件は、不完全で過ちを犯しやすい人間を理性で縛ることである。そこでは、同じ人間でありながら、「裁く人間」の過ちのみに着目し、「裁かれる人間」の過ちには着目しない。ここから被害者の見落としが生ずる。

「人の支配から法の支配へ」という自然法の思想は、卑小な人間は間違いを犯しがちであるから、権力者の過ちを理性的な法で監視しなければならないというものである。権力者の過ちとは、警察官の誤認逮捕であり、検察官による無実の者の起訴であり、裁判官による冤罪の誤判のことである。ここでは、そもそもの始まりである最初の犯罪については、過ちというカテゴリーに含めていない。これはキリスト教のカテゴリーと同じである。

もし本当に「人を裁くな」を実行したならば、社会には誰も裁く者がいなくなり、大混乱に陥る。その後始末については、キリスト教は無責任に放置している。犯罪被害者の見落としは、この無責任な放置の流れの先にある。

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