犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

十年一日の刑事裁判

2007-06-13 16:49:17 | 時間・生死・人生
3人の幼い子供たちが死亡した昨年8月の飲酒運転事故の初公判が、福岡地方裁判所で開かれた。そこでは、この上ない典型的な刑事裁判の光景が展開された。被告人は、罪状認否に関係のないところでは、「心底罪悪感でいっぱいです」、「真っ暗な海の中でたくさんの水を飲み、苦しみながら亡くなった子供たちのことを思うと、どうおわび申し上げていいのか言葉が見つかりません」、「一生懸けても誠心誠意償っていきたい。本当にすみませんでした」などと涙声交じりに謝罪の言葉を述べた。しかし、構成要件に直接関わるところでは、「正常な運転が困難になるほど飲酒していませんでした」、「衝突した車が海に落ちたことに全く気付かなかった」と語った。まさに十年一日、典型的な刑事裁判の戦略である。

死者に人権はない。人権論の理屈からすればその通りである。この帰結は、人権論の側から見てみれば、死者の軽さを示している。しかし、人間の生死という哲学的な根本問題の側から見てみれば、それは人権論の軽さを示している。人権論は、所詮はその程度のイデオロギーである。人権論は人間が生きていることを大前提としており、その大前提である生死そのものを扱う力はない。従って、刑事裁判が人間の生死を扱うときには、必然的に学芸会の様相を呈することになる。

存在論の根本は、生の事実性に気がつくことである。生きている人間は生きており、死んでいるのではない。「私は生きている」というためには、人間は生きている必要がある。この生が今ここに存在するということ、存在論とはこの当たり前の事実に驚くことである。そこには、人権論などという理屈は必要ない。3人の幼い子供たちが死亡したという事実の前には、本来であれば、人間は仰々しい裁判の儀式など真面目にできるはずもない。

どういうわけか宇宙には地球という星があって、そこに誕生した人類という生き物が、とりあえずのルールとして人権という概念や、裁判という制度を発明しただけの話である。哲学者から見れば、法律家の細かい議論は滑稽に見える。人権論は人間が生きていることを大前提とするならば、そのように議論を進めればいいだけの話である。

死者に人権はないという人権論からの論理展開は、犯罪被害者遺族の問題を説明する力がないことを示している。そうであるならば、その無力さは人権論それ自身に向けられるべきものであって、被害者遺族に向けるべきものではない。「加害者の人権ばかりが優先されて被害者の人権が蔑ろにされている」と言われてしまうのは、人権論はもともとその程度の力しか持っていないからである。従って、人権論から無罪の推定、そして厳格な近代刑法の理屈を何よりも重視する刑事裁判は、どうしても下手な学芸会のようになってしまう。

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