犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第2章・第3章

2007-06-20 16:41:44 | 読書感想文
第2章 弁護士から被害者に・第3章 ゼロからのスタート

刑事裁判において、犯罪被害者や遺族が被告や証人に質問したり、求刑の意見を述べることができる「被害者参加制度」の新設を柱とした刑事訴訟法改正案が、本日午後、参議院本会議でようやく可決成立した。岡村勲弁護士が求めていた念願の制度である。これは問題の解決ではなく、問題の始まりであると言われるが、至極当然のことである。新たな制度を作れば、思いもよらない新たな問題が起こってくることも当然であり、これも弁証法の動きの1つである。弊害を恐れて何らの新たな制度も作らないというのは、単なる政治的な意見にすぎない。始めてみないうちからあれこれと想像しても仕方がないことである。

岡村さんは、元第一東京弁護士会会長・元日弁連副会長である。この岡村さんが自らを省みてその心中を独白したことは、我が国の法曹界にとっては恐るべきことである。恐るべきことは、それを恐れている人によって、「恐ろしくない」と言い張られるものである。岡村さん自身、常に「国家」対「被告人」という図式で刑事司法を考え、憲法と刑事訴訟法に盛り込まれた理念に深く傾倒し、その価値を信じて疑っていなかった。その裏側で、被害者が置き去りにされているという事実に思い当たることはなかった。

人間というものは、その立場にならなければ物事が見えない。従って、裁判官や弁護士にはもちろんのこと、検察官にも被害者の存在はよく見えない。刑事裁判とは被害者を救済する場ではないからである。法治国家のイデオロギーは、社会の隅々まで法律によって支配を及ぼしているように見えるけれども、実際にはこの世のほんの一部の事象しか扱うことができていない。岡村さん自身がこのことを証明してしまった。日弁連副会長まで務めた人物が、自らの過ちを正面から認めてしまったからである。

この世のほんの一部の事象を法律の言語によってしか取り上げることしかできない裁判制度は、その制度自身が無力である。しかし、法治国家のイデオロギーは、その無力さのひずみを被害者に向けてしまう。犯罪被害者は蚊帳の外に追い出された。犯罪被害者の絶望と二次的被害は、このような法治国家のシステムによって人為的にもたらされたものである。

しかしながら、これは逆から見れば、法律家が狭い蚊帳の中に閉じこもったことでもある。狭い蚊帳の中で法律の理屈をゴチャゴチャとこね回して、狭い宇宙で完結していることである。これは、蚊帳の外の膨大な問題を解決する力がないということであり、蚊帳の外の声を恐れるということに他ならない。近代刑法を駆使する法治国家が被害者の声を取り上げなかったことも、一方では単なる軽視と見落としであるが、他方では恐れによる黙殺の契機を含んでいる。

岡村さんは、第一東京弁護士会会長・日弁連副会長まで務めていながら、自ら全国犯罪被害者の会の結成に動いた。これは、第一東京弁護士会や日弁連とは必然的に思想的に対立することを意味する。日弁連の側も犯罪被害者保護活動をしているが、岡村さんが目指しているものとは異なっており、あまり本気ではないということである。先日、刑事訴訟法改正案に反対する日弁連の平山正剛会長に対し、岡村さんの主催する「あすの会」が公開討論を申し込んだところ、これを拒否したという出来事があった。これも人権論が被害者の声を恐れており、逃避するしかないことを証明してしまった例である。

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