犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第1章

2007-06-14 18:35:42 | 読書感想文
第1章 犯罪被害者の過酷な生活

「全国犯罪被害者の会(あすの会)」のメンバーである岡本真寿美さんは、平成6年の2月、男性に突然ガソリンをかけられて全身に大やけどを負った。その後、皮膚の移植手術を24回も受け、今なお後遺症に苦しんでいる。加害者からは、賠償はおろか謝罪の言葉さえない。第1章ではこのような言語を絶する体験が詳しく再現され、細かく言語化されている。

戦後50年、悲惨な犯罪の数だけの悲惨な被害者が存在した。しかし、冤罪事件の苦しみは色々と詳しく語られ、被告人の人権を保護する動きは盛り上がっていた一方、犯罪被害者の苦しみはほとんど語られず、被害者には目が向けられてこなかった。その原因は、学問的な熟慮の結果としての選択によるものではない。冤罪事件の苦しみは語りやすいが、犯罪被害の苦しみは語りにくいことに基づくものである。

冤罪事件の苦しみを語る者は、怒りながらも、その怒りを表明することを自ら望むことができる。警察権力という悪に対して、自らは絶対的な正義の地位に立つことが保障されているからである。冤罪事件の苦しみを語る者は、その苦しみを忘れたがらない。これに対して、犯罪被害の苦しみを語ることは、いかなる意味でも望まれることではない。すべての怒りや苦しみ、悲しみや悩みは自分自身に返ってくる。犯罪被害の苦しみは、語り継ぐことを望まれながらも、同時に忘れ去ることも望まれるものである。かくして、冤罪事件の苦しみの声ばかりが社会に表明され、犯罪被害の苦しみの声は社会に出てこなくなった。こうして我が国では、犯罪被害者は論理の必然として、岡村さんが述べているとおり「棄民」扱いを受けることになる。

もしも自分や自分の大切な人が被害に遭ってしまったら、という想像は、それ自体が犯罪の二次的被害である。そのような事態は考えたくもないし、そもそも想像を絶する話である。被害者の絶望的な悲しみは、被害に遭った者しかわからない。これが、犯罪被害者の存在が長きにわたって見落とされたことの論理的な理由であり、悲惨な事件のたびに世論が盛り上がるが長続きしないことの論理的な理由である。

犯罪被害者は誰しも過酷な生活を送らざるを得ないが、言語化されないものは社会に共有されない。岡本さんの言語を絶する体験も、もし岡村勲さんが「犯罪被害者の会」を結成していなければ、この社会においてこのような形で文字にされることはなかった。言葉が社会を作り、言葉が法律を作る以上、被害者の言葉がこの国の社会や法律を動かすことは当然である。冤罪事件の苦しみを語る言語は政治的であるが、犯罪被害の苦しみを語る言語は哲学的である以上、両者が捉えている地点の深さは全く異なる。

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