犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「被相続人」とは何者なのか

2007-06-15 18:39:37 | 時間・生死・人生
殺人罪、業務上過失致死罪といった裁判は、真実が明らかにされるものと期待すればするほど、実際の法廷とのギャップに愕然とするものである。これは、ハイデガーの死の哲学から見てみれば、ごくごく当たり前の帰結である。人間は、生きている間は人権を持っている。これは法律学の視点である。他方、人間は生きている間にのみ、「人間は生きている間は人権を持っている」と考えることができる。これはメタの視点である。メタの視点は、法律学自身では扱えない。

裁判官や学者などの法律家は、法律の客観的な意味を探る。しかし、その客観性を認識できるのは、その人間である法律家が生きている間のみである。どんなに法律が客観的に存在すると言っても、その人間という主観が消滅してしまった場合には、客観性も同時に消滅する。法律学の枠組では、自分自身の消滅、すなわち自分自身の死は扱えない。殺人罪を研究している刑法の学者は、通り魔で殺されても、自分を殺した犯人の裁判を見ることだけはできない。相続を研究している民法の学者は、自分自身の相続の光景だけは見ることができない。

法律では、相続をする人のことを「相続人」、相続される人のことを「被相続人」と呼ぶ。例によって、遺言や遺産分割をめぐる骨肉の争いを解決する手法である。ところが、哲学的にこの「被相続人」というものを見てみると、非常にふざけた概念である。人間は、死んだ瞬間に「人」ではなくなるが、それによって被相続「人」になるという話である。このような用語法を何の疑問もなく受け入れている法律学の思考が、死という不可解なものを解決できるわけがない。

法律学の文脈では、他人の死は条文に変換できる。しかし、自分自身の死は条文上の問題ではない。自分が生きていることが大前提であり、大前提それ自体は疑われない。自己言及は、循環論法もしくは無限後退を引き起こす。法律学では、もともと人間の死というものを扱えない。条文上の要件に押し込めた結果として、死という現象を正面から理解することをあきらめている。

殺人犯は、人を殺しておきながら、裁判において自分の人権だけを主張する。これも法律学の枠組からは、当然の結末である。死は理解できないから、とりあえず生きている人間の人権を保障すればいいだけの話である。殺された被害者は、人権論の枠組には入ってこない。人間は、生きている間にのみ人権を持っているからである。人間の死というものを扱えない法律学からすれば、このような結末はごく自然である。

このような法律学の文脈が一般国民や被害者遺族に違和感をもたらすのは、法律学が人間の死というものを扱えないにもかかわらず、その無力さを隠しているからである。そして、被害者を裁判から疎外した上で、社会正義の実現の名の下に殺人行為や死亡事故を裁いているからである。人間の死を扱えない裁判制度が、それを扱えるふりをしている。被害者遺族の怒りと悲しみは、ここにおいて増幅される。法律学には死は扱えないがゆえに、死を扱うことができていると勘違いしている。哲学は死を扱うことができるがゆえに、死を扱うことは無理であると自覚している。

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