のんびり気軽にさんぽがてら。
”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」について長くお送りしておりましたが…ようやく今回が完結編です。
これら合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのでした。
「保元の乱」の勝利によって、「後白河天皇」の側近「藤原信西」は「平清盛(※写真)」と接近し、実権を掌握しておりました。
一方、信西の対抗馬「藤原信頼」は乱後にくすぶっていた「源義朝」を味方とし、ついに挙兵。
瞬く間に「後白河院」、そして「二条天皇」を確保し、信西を自害させたのです。
こうして実権を握った「藤原信頼」ですが、独断専行の政治は「二条天皇」や大半の貴族に甚だ評判の悪いものでした。
反対派は「二条天皇」の奪回に成功。
追討の宣旨を得た「平清盛」勢はこれを機に反撃を開始し、六条河原での合戦にてついに源氏勢を敗北させたのです。
敗北した「源義朝」ら源氏勢は、東国にて勢力の再編を図るべく撤退を決意。
次男「源朝長(みなもとの・ともなが)」、三男「源頼朝(みなもとの・よりとも)」らと共に戦場を脱出しました。
なお、同行を義朝に拒否(←当然ですねー)された「藤原信頼」は捕らえられ、六条河原で斬首されております。
逃れた源氏勢。
まず、積雪のため道に迷った三男「源頼朝」は早くも捕らえられ、どうにか許されたものの伊豆へ流罪。
義朝らはわずかな従者と共に琵琶湖畔へ出て勢多を渡り、美濃国(岐阜県)赤坂の青墓まで逃れました。
ここで嫡男「源義平」は一行と別れ、単独行動を取っております。
尾張国(愛知県)知多郡へ入った義朝は、家来「長田忠致(おさだ・ただむね)」を頼って東国へ逃げようとしていました。
しかし、永暦元年(1160)にその忠致によって、”浴室で謀殺されてしまう”のです。
享年三十八。
北国へ逃れていた義平はその報に接すると、
「せめて一太刀でも浴びせて父の無念を晴らす」
…と、逢坂山(三井寺)などに潜伏して、ひそかに清盛暗殺を狙っておりました。
しかし、”体格雄偉で不敵な面構え”だったことで怪しまれ、平家家人「難波経房(なんば・つねふさ)」によって捕らえられてしまったのです。
こうして、潜入してチャンスを狙っていた嫡男・義平も捕縛され、六条河原にて斬首。
享年二十。
なお、斬首にあたり、
「死後は雷神となって経房以下の怨敵を伐たん!」
そう叫んだ義平の死骸は首を抱え込むようにして伏し、”どうにも体から離せなくなった”と、伝わっています。
こうして、清盛に対抗できる勢力はなくなり、残った「後白河院」らも自らを守護するべき唯一の軍事力として、平氏を重用せざるを得なくなってしまうのでした。
その武力を背景に平氏は公卿となり、要職を一門にて占拠していくのです。
この乱によって源氏は没落。
後の頼朝挙兵まで、平家政権が確立することとなるのでした。
[関連記事] 【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 「承久の乱」[ 1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 義仲寺 (滋賀)
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編
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※記事作成中に、こちら買っちゃいました。でへへ。
でも、この定番シリーズはちゃんとした説明書ではないのね。
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「保元の乱」の勝利によって、「後白河天皇」の側近「藤原信西」は「平清盛(※写真)」と接近し、実権を掌握しておりました。
一方、信西の対抗馬「藤原信頼」は乱後にくすぶっていた「源義朝」を味方とし、ついに挙兵。
瞬く間に「後白河院」、そして「二条天皇」を確保し、信西を自害させたのです。
こうして実権を握った「藤原信頼」ですが、独断専行の政治は「二条天皇」や大半の貴族に甚だ評判の悪いものでした。
反対派は「二条天皇」の奪回に成功。
追討の宣旨を得た「平清盛」勢はこれを機に反撃を開始し、六条河原での合戦にてついに源氏勢を敗北させたのです。
敗北した「源義朝」ら源氏勢は、東国にて勢力の再編を図るべく撤退を決意。
次男「源朝長(みなもとの・ともなが)」、三男「源頼朝(みなもとの・よりとも)」らと共に戦場を脱出しました。
なお、同行を義朝に拒否(←当然ですねー)された「藤原信頼」は捕らえられ、六条河原で斬首されております。
逃れた源氏勢。
まず、積雪のため道に迷った三男「源頼朝」は早くも捕らえられ、どうにか許されたものの伊豆へ流罪。
義朝らはわずかな従者と共に琵琶湖畔へ出て勢多を渡り、美濃国(岐阜県)赤坂の青墓まで逃れました。
ここで嫡男「源義平」は一行と別れ、単独行動を取っております。
尾張国(愛知県)知多郡へ入った義朝は、家来「長田忠致(おさだ・ただむね)」を頼って東国へ逃げようとしていました。
しかし、永暦元年(1160)にその忠致によって、”浴室で謀殺されてしまう”のです。
享年三十八。
北国へ逃れていた義平はその報に接すると、
「せめて一太刀でも浴びせて父の無念を晴らす」
…と、逢坂山(三井寺)などに潜伏して、ひそかに清盛暗殺を狙っておりました。
しかし、”体格雄偉で不敵な面構え”だったことで怪しまれ、平家家人「難波経房(なんば・つねふさ)」によって捕らえられてしまったのです。
こうして、潜入してチャンスを狙っていた嫡男・義平も捕縛され、六条河原にて斬首。
享年二十。
なお、斬首にあたり、
「死後は雷神となって経房以下の怨敵を伐たん!」
そう叫んだ義平の死骸は首を抱え込むようにして伏し、”どうにも体から離せなくなった”と、伝わっています。
こうして、清盛に対抗できる勢力はなくなり、残った「後白河院」らも自らを守護するべき唯一の軍事力として、平氏を重用せざるを得なくなってしまうのでした。
その武力を背景に平氏は公卿となり、要職を一門にて占拠していくのです。
この乱によって源氏は没落。
後の頼朝挙兵まで、平家政権が確立することとなるのでした。
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⇒ 直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 「承久の乱」[ 1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 義仲寺 (滋賀)
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