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巨樹を巡る!「清滝のイブキ(柏槇)」~米原市清滝と柏原宿~

2021-04-07 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市の清滝という集落に「清滝のイブキ」と呼ばれる柏槇(ビャクシン)の古木があるといいます。
清滝には京極家の菩提寺である「清瀧寺徳源院」があり、池泉回遊式庭園が紅葉の名所となっていると聞きます。

京極家は、鎌倉時代に近江を治めていた近江源氏こと佐々木氏の家系で、信綱の時代には4人の息子(六角氏・京極氏・高島氏・大原氏 )に近江の国を分けて治めさせたといいます。
六角・高島・大原の3氏はその後滅びたものの、京極氏は戦国時代~江戸時代を生き抜き、明治維新後は華族に列せられていたといいます。



「清瀧寺徳源院」は新型コロナウィルス感染防止のため拝観停止となっていますが、駐車場をお借りして清滝の集落を歩き「清滝のイブキ」を探します。
「清滝のイブキ」には京極氏にまつわる伝承があり、“京極氏が伊吹山から一株の苗木を投げ、その飛んだところを墳墓にしようとしたのが当地に飛んできて根付き、以後ここを氏の本拠とした”とある。



清滝の集落は、独立峰の清滝山(標高439m)の麓にあり、平野を挟んで伊吹山がかなり近くに望める位置にあります。
「清滝のイブキ」のある場所は、かつての勝願寺跡地ということであったが、路地にある民家と庭続きのような場所にあり「清滝のイブキ」の根の場所には小さな祠が祀られている。



「清滝のイブキ」は樹高が10mほどと高さはさほどではないものの、幹周4.9mの幹は空洞になって白骨化した部分も見られ、くねるように枝が何本も伸びている姿に魅了される。
幹の痛みとは裏腹に、分岐した横枝からは広がる樹冠はこんもりと大きく形成され、樹勢の良さはいまだ健在といえると思います。





このイブキには樹齢700年とされる老樹ゆえの枯れの美しさと樹冠の見事さが両立しており、イブキ(柏槇)としては県内最大級の巨樹とされています。
また、その荒々しい姿からは名前が示す通り「伊吹の神」を思わせるものであり、ヤマトタケルを返り討ちにしたという神話の世界すら連想させてくれます。





降りしきる雨の中、清滝までやってきた甲斐があったと納得するだけの価値のある巨樹だったと思います。
逆に言えば、雨の中で余計に神秘性が増して見えたとも言え、やっと対面できた事に感謝します。



最近は出先に宿場町があると取り合えず街道を通ってみることにしていますが、清滝の集落から国道へ戻る途中には中山道六十九次の宿場町「柏原宿」があり、立ち寄ります。
「柏原宿」は中山道67宿の一つで江戸から数えて60番目の宿場となり、宿場には344軒の家や本陣・脇本陣と旅籠屋22軒がある規模の大きな宿場宿だったといいます。



街道には「柏原一里塚」が復元されており、江戸時代の面影をわずかに残しています。
一里塚は1里(3.9㌔)おきに設けられた塚で、かつての「柏原一里塚」は北塚と南塚が街道を挟んで造られていたといいます。



一里塚は旅人の目印となるものであり、駕籠・馬の乗り賃銭の目安や旅人の休憩場所として造られていたものだとされます。
塚に植えられた榎の木は、旅人が木陰で休めることや根を張ることで塚の崩壊を防ぐ役割があったといいます。
榎はまだか細いため、日よけにはならないかもしれませんが、年月が経って大きく育ってくれば、一里塚らしい雰囲気が増してくると思います。



また柏原は岐阜県関ケ原町と隣接する宿場にあたり、県境には「寝物語」という風情のある話が残されています。
国境となる小さな溝を挟んで美濃側と近江側に建つ旅籠に泊まった旅人同士が、寝ながら他国の人と話合えたという何とも優雅な話が伝わります。



柏原の街道には「柏原宿歴史館」があり、「福助さん大集合!」と題された常設展が開催されていたため、引き込まれるように入館しました。
「柏原宿歴史館」は1917年に建てられたという三層の屋根の重厚な建物であり、中には和室が連なり庭園もある。



「福助さん大集合!」に展示されている福助さんは、本宅と展示室になんと205点もの福助さんが展示されている。
柏原宿は「もぐさ」が特産品で、最盛期には10軒以上のもぐさ屋があったといいますが、有名なのは伊吹艾(もぐさ)本舗「亀屋左京」に現存する天井まで届きそうな大きな福助人形です。

当方が「亀屋左京」の福助さんを知ったのは、荒俣 宏さんの「福助さん(1993年刊行)」という本でしたが、読後に柏原の亀屋左京さんまで行って見せて頂いた記憶があります。
今回、歴史館で知ったのは「亀屋左京」の福助さんが歌川広重の「木曽海道六十九次」の柏原宿の絵に福助さんが描かれていたことでした。



福助さんは、「亀屋左京」の忠実で勤勉な番頭さんを模しているといい、柏原は福助発祥の地とされています。
別の説では、摂津国の佐太郎という大頭の身体障がい者がモデルともいわれ、江戸両国の見世物小屋に出ていたところを旗本が譲り受け、その後旗本の家は幸運つづきであったという。
「亀屋左京」の福助さんは今よくある丸っぽい福助さんとは姿が違い、 大顔・福耳ながら体形は人間に近く、最初に見た時はかなりの違和感を感じました。



歌川広重の「木曽海道六十九次」は1800年代の前半に描かれたものとされていますから、「亀屋左京」の福助さんはその頃から存在したのだと考えられます。
「福助学」なんていうジャンルがあるのかどうかはともかく、江戸期に庶民のなかで流行した人形や絵には知れば知るほど興味が湧いてきます。



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