「近江を制する者は天下を制す」とは戦国時代の近江を表す言葉で、近江には京の都へ入る東海・北陸からの主要幹線があり、要衝と琵琶湖水運を抑えるため織田信長は琵琶湖近くに4つの城を築いたといいます。
「坂本城」は比叡山延暦寺焼き討ち後に明智光秀が城主となり、「長浜城」は浅井長政を小谷決戦で滅亡させた後、羽柴秀吉が城主となる。
「安土城」は信長の居城として築城され、湖西高島市の「大溝城」は信長の甥である織田信澄を城主とし、琵琶湖の制海権を掌握したという。
4城ともに琵琶湖に面する、あるいは内湖によって琵琶湖とつながっている城で、光秀や秀吉など信長配下の有力武将が配置されていたのが配置図で分かる。
しかし、今はどの城も石垣などを残すのみとなり往年の姿はなくなっています。
「大溝城」のある勝野の町には中央に「西近江路(旧北陸街道」が通り、江戸時代に大溝藩の陣屋があったことから古くて大きな建築物が多く、宿場町のような雰囲気があります。
一時期は観光の町だったようですが、日曜にも関わらず大半の店は閉められており、町は閑散としたものでした。
「大溝城」の城主の織田信澄は信長の甥ですが、父の信勝は謀反の企てにより信長に殺され、柴田勝家の許で養育された方とされます。
信長の居城である「安土城」の大手道には「伝 前田利家邸跡」「伝 羽柴秀吉邸跡」「伝 徳川家康邸跡」の遺構があると伝わりますが、「織田信澄邸跡」は本丸に近い黒鉄門近くにある。
「織田信澄邸跡」と「森蘭丸邸跡」は本丸や二の丸・三の丸に近くの中枢部にあることから、信澄や蘭丸は側近として信長の信任が厚かったことが伺われます。
残念ながら信澄は正室が明智光秀の娘だったことにより、本能寺の変の際に織田信孝・丹羽長秀によって謀反人の汚名を着せられて殺されてしまいます。
「大溝城」は信澄の死後、丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次らが城主を勤めたものの、やがて解体されて水口岡山城(甲賀市)に移されたといい、今は本丸跡の石垣などが残るのみ。
江戸時代には分部光信が初代大溝藩主となり、大溝陣屋を築いて城下町を整備したとされますので、現在はこの本丸跡だけが安土桃山の遺構となります。
石垣は野面積みとなっており、隅部は算木積みとなっているが、木が根を張っていて一部は崩壊しそうになっている。
かつての本丸・二の丸・三の丸は「乙女ヶ池」という内湖に囲まれていて琵琶湖にもつながっていたそうですが、内湖も一部を除いて埋め立てられてしまっています。
織田信長の琵琶湖城郭ネットワークは知りうる限りでは、安土城の石垣はかなり修復されていますが、長浜城は城は建てられているものの博物館としての城、坂本城に至っては湖底に石垣があるのみ。
そう考えると大溝城はまだ遺構が残っている城址になり、石段を登って天守跡まで行くことが出来る。
このスペースに天守があったのかと思ってしまうほど狭い感じがしますが、当時はどのような天守が建てられていたのでしょう。
江戸時代に築かれた名城と呼ばれるような天守閣の印象があり過ぎて想像するのは難しいように思えてしまいます。
本丸の規模は、南北約57m・東西約52mとされ、天守台跡の表示のある場所には大きな岩や加工された石が積まれています。
この辺りからは安土城の軒丸瓦と同じ軒丸瓦が出土しているようですが、安土城のような金箔瓦は出土していないといいます。
これは信澄が甥であり、信長の直系一族ではなかったため金箔瓦の使用が認められなかったと滋賀県文化財保護課の解説にありました。
1664年の「大溝城下古図」では大溝城の主要部が内湖に囲まれており、すぐ横には琵琶湖に面した城であったことが分かります。
琵琶湖に面していることで有事の際には舟で軍勢が駆けつけることができ、京と若狭を結ぶ湖水運の拠点としても便の良い位置にあった城だと考えられます。
城を取り巻いた外濠だった内湖の乙女ヶ池にはかつての船着き場かと思われる遺構が残り、湖の東西を対岸まで渡ることができる橋が架けられています。
時代劇に出てくるような橋だなぁと思いながら対岸まで渡ってみると、対岸近くの橋の上にはナンキンハゼの実がたくさん落ちていて季節を感じます。
所々に竿を垂れる人がおられるような広い内湖が残っていますが、古地図からすると昔はもっと広い内湖だったと推測できます。
乙女ヶ池は古代史にも登場する内湖とされ万葉集の歌枕として詠まれているといい、かつては「洞海」と呼ばれ昭和初期から「乙女ヶ池」と呼ばれるようになったという。
大溝城址と乙女ヶ池を一回りしましたので、大溝城の瓦や高島にある古墳出土品が展示されている「高島歴史民俗資料館」へと立ち寄ります。
高島歴史民俗資料館のすぐ近くには「鴨稲荷山古墳」がありますので、まずは古墳に立ち寄る。
近江高島といえば第26代天皇の継体天皇の出生地とされていますが、継体天皇は第15代応神天皇の五世孫ですから、本来は天皇には到底なれない血筋の方です。
継体天皇は幼いときに父を亡くして母の故郷である越前国で育てられて越前と高島を行き来したといい、高島では有力豪族であった三輪氏の庇護を受け、三輪氏は二人の妃を継体天皇に嫁がせたとされます。
「鴨稲荷山古墳」は多数の豪華副葬品が出土した前方後円墳とされていますが、今は石棺を保管する覆屋だけが残ります。
高島には継体天皇に関連する遺跡や伝承が多く残るものの、天皇になった経緯には謎めいた部分が多く、神話の時代を含む天皇系統では継体以降が現在の天皇系統の始まりとする説があります。
前方後円墳の跡形もないような原っぱに石棺を納めた覆屋があり、中には入れませんが3方向の窓から石棺を見ることが出来ます。
石棺は凝灰岩製の刳抜式石棺だとされ、奈良県と大阪府にまたがる二上山から運び込まれたものとされ、副葬品の豪華さから継体天皇の三尾氏出身の皇子が被葬者だという説があるようです。
継体天皇以降の系統は息子・孫と歴代の天皇が続き、曾孫に聖徳太子(厩戸皇子)までいますから、飛鳥時代の大王の系譜として血をつないだ方ということになります。
高島・越前時代に三輪氏の妃と婚姻していた継体天皇は、24代仁賢天皇の娘であり25代武烈天皇の姉である手白香皇女を皇后に迎え、その子供たちが天皇に即位したのは血統を正すためだったのか。
古墳のすぐ近くには「高島歴史民俗資料館」がありますので立ち寄ってみると、興味深いことに鴨稲荷山古墳の石棺や冠・靴などの復元品が展示されていました。
1階の展示室の真ん中には家形石棺の復元品があり、蓋石の部分が半開きになっています。
石棺の中には謎多き被葬者が葬られており、当時の被葬の様子が垣間見えます。
棺内に納められていた副葬品は東京国立博物館に保存されているため実物を見ることは叶いませんが、復元された副葬品の展示からは6世紀前半の古墳の副葬品に想像を膨らませることが出来ます。
「鴨稲荷山古墳」から出土された「金銅製冠」は正式には「金銅製広帯二山式冠」というそうで、「滋賀県立安土考古博物館」にも復元品があったと思います。
煌びやかな冠の頭上にある飾りは魚の泳ぐ波の上に舟が浮かんでいるようにも見えることから、渡海してきた渡来人との関わりを指摘する説があるという。
煌びやかという点で「金銅製飾履」も実に豪奢な履物となっており、履物の裏側が鏡に映り装飾がよく見える展示方法となっています。
これほどの金銅製宝冠と飾履が副葬品が埋葬されていた古墳ですから、豪族というよりも大王にまつわる人物の墓と推定される説には頷けるものがあります。
「坂本城」は比叡山延暦寺焼き討ち後に明智光秀が城主となり、「長浜城」は浅井長政を小谷決戦で滅亡させた後、羽柴秀吉が城主となる。
「安土城」は信長の居城として築城され、湖西高島市の「大溝城」は信長の甥である織田信澄を城主とし、琵琶湖の制海権を掌握したという。
4城ともに琵琶湖に面する、あるいは内湖によって琵琶湖とつながっている城で、光秀や秀吉など信長配下の有力武将が配置されていたのが配置図で分かる。
しかし、今はどの城も石垣などを残すのみとなり往年の姿はなくなっています。
「大溝城」のある勝野の町には中央に「西近江路(旧北陸街道」が通り、江戸時代に大溝藩の陣屋があったことから古くて大きな建築物が多く、宿場町のような雰囲気があります。
一時期は観光の町だったようですが、日曜にも関わらず大半の店は閉められており、町は閑散としたものでした。
「大溝城」の城主の織田信澄は信長の甥ですが、父の信勝は謀反の企てにより信長に殺され、柴田勝家の許で養育された方とされます。
信長の居城である「安土城」の大手道には「伝 前田利家邸跡」「伝 羽柴秀吉邸跡」「伝 徳川家康邸跡」の遺構があると伝わりますが、「織田信澄邸跡」は本丸に近い黒鉄門近くにある。
「織田信澄邸跡」と「森蘭丸邸跡」は本丸や二の丸・三の丸に近くの中枢部にあることから、信澄や蘭丸は側近として信長の信任が厚かったことが伺われます。
残念ながら信澄は正室が明智光秀の娘だったことにより、本能寺の変の際に織田信孝・丹羽長秀によって謀反人の汚名を着せられて殺されてしまいます。
「大溝城」は信澄の死後、丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次らが城主を勤めたものの、やがて解体されて水口岡山城(甲賀市)に移されたといい、今は本丸跡の石垣などが残るのみ。
江戸時代には分部光信が初代大溝藩主となり、大溝陣屋を築いて城下町を整備したとされますので、現在はこの本丸跡だけが安土桃山の遺構となります。
石垣は野面積みとなっており、隅部は算木積みとなっているが、木が根を張っていて一部は崩壊しそうになっている。
かつての本丸・二の丸・三の丸は「乙女ヶ池」という内湖に囲まれていて琵琶湖にもつながっていたそうですが、内湖も一部を除いて埋め立てられてしまっています。
織田信長の琵琶湖城郭ネットワークは知りうる限りでは、安土城の石垣はかなり修復されていますが、長浜城は城は建てられているものの博物館としての城、坂本城に至っては湖底に石垣があるのみ。
そう考えると大溝城はまだ遺構が残っている城址になり、石段を登って天守跡まで行くことが出来る。
このスペースに天守があったのかと思ってしまうほど狭い感じがしますが、当時はどのような天守が建てられていたのでしょう。
江戸時代に築かれた名城と呼ばれるような天守閣の印象があり過ぎて想像するのは難しいように思えてしまいます。
本丸の規模は、南北約57m・東西約52mとされ、天守台跡の表示のある場所には大きな岩や加工された石が積まれています。
この辺りからは安土城の軒丸瓦と同じ軒丸瓦が出土しているようですが、安土城のような金箔瓦は出土していないといいます。
これは信澄が甥であり、信長の直系一族ではなかったため金箔瓦の使用が認められなかったと滋賀県文化財保護課の解説にありました。
1664年の「大溝城下古図」では大溝城の主要部が内湖に囲まれており、すぐ横には琵琶湖に面した城であったことが分かります。
琵琶湖に面していることで有事の際には舟で軍勢が駆けつけることができ、京と若狭を結ぶ湖水運の拠点としても便の良い位置にあった城だと考えられます。
城を取り巻いた外濠だった内湖の乙女ヶ池にはかつての船着き場かと思われる遺構が残り、湖の東西を対岸まで渡ることができる橋が架けられています。
時代劇に出てくるような橋だなぁと思いながら対岸まで渡ってみると、対岸近くの橋の上にはナンキンハゼの実がたくさん落ちていて季節を感じます。
所々に竿を垂れる人がおられるような広い内湖が残っていますが、古地図からすると昔はもっと広い内湖だったと推測できます。
乙女ヶ池は古代史にも登場する内湖とされ万葉集の歌枕として詠まれているといい、かつては「洞海」と呼ばれ昭和初期から「乙女ヶ池」と呼ばれるようになったという。
大溝城址と乙女ヶ池を一回りしましたので、大溝城の瓦や高島にある古墳出土品が展示されている「高島歴史民俗資料館」へと立ち寄ります。
高島歴史民俗資料館のすぐ近くには「鴨稲荷山古墳」がありますので、まずは古墳に立ち寄る。
近江高島といえば第26代天皇の継体天皇の出生地とされていますが、継体天皇は第15代応神天皇の五世孫ですから、本来は天皇には到底なれない血筋の方です。
継体天皇は幼いときに父を亡くして母の故郷である越前国で育てられて越前と高島を行き来したといい、高島では有力豪族であった三輪氏の庇護を受け、三輪氏は二人の妃を継体天皇に嫁がせたとされます。
「鴨稲荷山古墳」は多数の豪華副葬品が出土した前方後円墳とされていますが、今は石棺を保管する覆屋だけが残ります。
高島には継体天皇に関連する遺跡や伝承が多く残るものの、天皇になった経緯には謎めいた部分が多く、神話の時代を含む天皇系統では継体以降が現在の天皇系統の始まりとする説があります。
前方後円墳の跡形もないような原っぱに石棺を納めた覆屋があり、中には入れませんが3方向の窓から石棺を見ることが出来ます。
石棺は凝灰岩製の刳抜式石棺だとされ、奈良県と大阪府にまたがる二上山から運び込まれたものとされ、副葬品の豪華さから継体天皇の三尾氏出身の皇子が被葬者だという説があるようです。
継体天皇以降の系統は息子・孫と歴代の天皇が続き、曾孫に聖徳太子(厩戸皇子)までいますから、飛鳥時代の大王の系譜として血をつないだ方ということになります。
高島・越前時代に三輪氏の妃と婚姻していた継体天皇は、24代仁賢天皇の娘であり25代武烈天皇の姉である手白香皇女を皇后に迎え、その子供たちが天皇に即位したのは血統を正すためだったのか。
古墳のすぐ近くには「高島歴史民俗資料館」がありますので立ち寄ってみると、興味深いことに鴨稲荷山古墳の石棺や冠・靴などの復元品が展示されていました。
1階の展示室の真ん中には家形石棺の復元品があり、蓋石の部分が半開きになっています。
石棺の中には謎多き被葬者が葬られており、当時の被葬の様子が垣間見えます。
棺内に納められていた副葬品は東京国立博物館に保存されているため実物を見ることは叶いませんが、復元された副葬品の展示からは6世紀前半の古墳の副葬品に想像を膨らませることが出来ます。
「鴨稲荷山古墳」から出土された「金銅製冠」は正式には「金銅製広帯二山式冠」というそうで、「滋賀県立安土考古博物館」にも復元品があったと思います。
煌びやかな冠の頭上にある飾りは魚の泳ぐ波の上に舟が浮かんでいるようにも見えることから、渡海してきた渡来人との関わりを指摘する説があるという。
煌びやかという点で「金銅製飾履」も実に豪奢な履物となっており、履物の裏側が鏡に映り装飾がよく見える展示方法となっています。
これほどの金銅製宝冠と飾履が副葬品が埋葬されていた古墳ですから、豪族というよりも大王にまつわる人物の墓と推定される説には頷けるものがあります。
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