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「千手寺」は後に天台宗の寺院となったようですが、信長の兵火によって荒廃してしまい、1650年になって臨済宗妙心寺派の寺院として再興されたといいます。
寺院には「木造僧形座像(中国・唐時代)」や天台系三尊である「木造千手観音立像(平安期)」が脇侍の「毘沙門天立像・不動明王立像(室町期)」と共に祀られているといいます。
また、「木造僧形阿難尊者(平安期)」も祀られているようですが、堂内の通常拝観は出来ないようです。
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では、なぜ参拝に訪れたかというと、参道の石段に「地蔵摩崖仏」と「六体地蔵笠板碑」が祀られていると聞き、その摩崖仏と板碑を探しにいったのです。
荒神山には舗装された林道や整備された山道があるため、ウォーキング・ジョキングの方が多かったのには驚きましたが、とにかく会う方がみんな愛想が良かったので気持ちよく歩けました。
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荒神山には山頂近くに「荒神山神社」、麓には「唐崎神社」「天満天神社」「稲村神社」の社があり、寺院も中腹に「千手寺」、麓にある「延寿禅寺」と神仏習合の山だったようです。
荒神山の信仰は、行基が「三宝大荒神」を祀ったことを起源とするようであり、山岳信仰に神道・天台密教が混合した霊山だったと考えられます。
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石段は林道で分断され、前半の石段は約120段程度。傾斜が緩いため歩きやすい。
前半の石段を登っていくと目的であった「地蔵摩崖仏」と「六体地蔵笠板碑」へ辿り着く。
花が供えられているのは寺の方か地元の方かは不明ですが、供えられて日が経っていないのは花の鮮度で分かる。
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「地蔵摩崖仏」は上半身と下半身の間で割れてしまっているのが痛々しいが、地蔵菩薩ゆえに自分が傷んでも衆生を救うとの決意を思い浮かべる。
室町期の摩崖仏ともいわれるこの石仏は、信長軍が攻めてきた時も同じようにここで佇んで人々の行動を見続けてこられたのでしょう。
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「板碑」は関東地方に多いとされているもので、関西では見かける機会が少ないように思います。
「六体地蔵笠板碑」は仏が2躰づつ3段になって彫られているが、台座は宝塔の笠部を逆さまにして使っているように見える。
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板碑は一般的に、鎌倉期~南北朝期・室町期を中心に造られ、江戸時代には造られなくなったといわれます。
そうするとこの板碑は、室町期の頃に造られてその後に組み替えられたものなのかもしれません。
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摩崖仏と板碑が祀られている場所から石段を登り切って林道に出ると、次は後半の石段登りが始まる。
後半の石段は100段程度でしょうか。緩やかな上に先が見えているのであっという間に登れてしまう。
石段の途中にある電柱には郵便受けがありましたが、郵便屋さんは石段の途中まで配達してくれるようですね。
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石段の先には砦のような石垣で囲まれた千手寺の「三門」があります。
千手寺は江戸時代初期に再興されたといいますから、石垣はその当時に築かれたものかもしれません。
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三門から入山すると、すぐ横に「八角霊堂」と呼ばれる供養堂があり、永代供養の御堂になっているようです。
山側には墓地もあり、菩提を弔う供養の寺といった空気が漂います。
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正面にあるのは「観音堂」で、「観音堂」と「本堂」はつながった建物となっており、さらに庫裡へもつながっています。
「観音堂」の前にある「地蔵堂」には「木造地蔵菩薩立像」が祀られていて、お地蔵さんの周囲には多くの位牌が安置されています。
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「本堂」はかなり横長の建造物となっているが、内部がどうなっているかは分からない。
臨済宗の寺院ですから、おそらく座禅や公案の道場となっているかと推測します。
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観音堂の左には手水と小さな祠があり、『禅僧の水汲み径や竹の春』の石標。
「竹の春」は、「春」と書いて「秋」の季語だといい、竹の新葉の盛りである秋の季節を「竹の春」とするといいます。
真っ直ぐに自分の時間を生きている竹に、禅僧が思うがままにまっすぐに行う水汲みの径をかけているのかも知れません。
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苔の生えた庭園状の所には石像がちょこんと祀られています。
何の石像を意味しているのか分かりませんが、役行者のようにも見えます。
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境内には古そうな「石造宝塔」がありましたので、年代など文字を読み取ろうとしたが判読できなかった。
三本筋塀の前に立つ石造宝塔は雰囲気たっぷりですが、横に表示されている73の数字は何を意味しているのでしょう。
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蔵の横にも石灯籠がありますが、何か違和感を感じる石燈籠となっている。
上の部分が玉・笠・火袋・受・足の「雪見灯篭」となっているにも関わらず、下の部分は受鉢・柱・地輪の石灯籠となっている。
参道にあった「六体地蔵笠板碑」も奇妙な組み合わせとなっていたが、この石灯籠も別の灯籠を組み合わせたように見えてしまいます。
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千手寺に祀られている「木造千手観音立像」を検索すると、細面で手の長い美しい仏像のようです。
臨済宗妙心寺派の寺院へと変わりながらも、天台宗寺院の仏像が残されているのは興味深い。
林道はウォーキングの方が絶えないが、寺院の境内はひっそりとしたもので人の姿はなく、静かに菩提を弔う寺院との印象を強く感じました。
(2020年3月下旬 参拝)
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