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“男のためのガーデニング”改め

八田山~太尾山城址(北城と南城)を周回!

2022-10-27 15:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市のJR米原駅の近くにある「吸湖山 青岸寺」へ参拝に訪れたところ、拝観時間に少し早く着いてしまいました。
時間つぶしに周辺観光の案内板を見ていると、青岸寺の後方の太尾山に遊歩道があり、登れるようになっている。
太尾山には2つのピークがあってそれぞれ北城址と南城址があり、山全体が太尾山城址となっているようでしたので、さっそく登ってみる。

「太尾山城」は地元の土豪・米原氏によって築かれ、1471年には美濃守護代・斎藤妙椿の近江侵攻時に合戦があり、1538年には六角氏が布陣。
1552年には京極高広の攻撃を退けたものの、1561年には浅井長政により攻略されてしまいます。
1571年に織田信長の浅井氏攻めで佐和山城が開城した後は廃城になってしまったといいます。



見た目も標高も低い山なんですぐに登ってこれると踏んで山に入りましたが、遊歩道とは名が付くものの、ほぼ登山道のような道を登ることになりました。
麓に登山届のポストがあったのは、こういう意味だったのかとここで理解できたが、もう遅い。
最初の急登を登ると分岐があり、太尾山方向には進まず、まずは太尾山の隣にある「八田山」へと登っていきます。



開けた場所に着いたものの、道がどこか分からない。
登山道と思われる道を行くと、はっきりとした道に出られてやっとルート通りの道になる。



この先からは明確な道が続きますので迷うことはありませんが、結構キツイ道が続きます。
勾配のきついところには黒いプラスティックの段が付いている場所があって、登りやすい場所もあるが最後まで登り道だけが続きます。



驚いたのはこの「八田山」と峰続きの「太尾山」の山中には巨石がやたらと多い事です。
JRの駅に発着する電車の音が聞こえるような場所にある低山ながら、なんて面白い山なんだろうと驚いてしまう。



山頂が岩場なんですが、こういう山頂の雰囲気はいいですね。
山への信仰のようなものを感じますし、ここより先の道中も含めて積み石が何ヶ所も見られました。



山頂表示は標高140m。
登ってきた感覚からすると、標高が低すぎて気が抜けそうな感じになります。



では、八田山を下って太尾山へ登り返すこととします。
「軍艦岩」と呼ばれる巨石が横たわっており、先端まで行ってみたが、怖いので下りてきて迂回道を進みます。



軍艦岩を前から眺めると確かに軍艦をイメージできるような形をしている。
さっきまで岩の上にいましたが、こう見るとやはり正面側へ降りるのは無理そうです。



途中からシダが茂った道となり、こういう道が大嫌いな当方は足と地面の接地面積を減らしたく、つま先走りで駆け抜けます。
シダの下から何か出てくるのでは?とつい想像してしまうのでこういう道は苦手です。



太尾山を目指して進んで行くと、またも大きな巨石が横たわっています。
細長い砦のようにも見えますが、上には広い平面があり、フレームには納まりきらない大きさです。





さらに登っていくと見晴らしが良く、眺望のいい岩場に出ます。
岩の前にいた時は気付きませんでしたが、これが「蛮人岩」の裏側になります。



曇り空ですっきりしないが、見晴らしは絶景です。
米原の市街地から石田三成の居城であった佐和山が見えます。彦根城はその裏だと思いますのでここからは見えない。
琵琶湖を挟んだ湖西側には比良山系の山が見え、高島の白髭神社もあの辺りにあるのかもと推測してみる。



「蛮人岩」の正面へ回り込む側道を進むと断層になった巨石があります。
こういう岩はありそうだけど余り見ることがないので、通り過ぎずもう少し見てけばよかったと後で後悔する。



「蛮人岩」には“その昔、盗人がこの岩陰に隠れ住んで村人を脅かしたと云う言い伝えがある。”とのことで、荒々しい巨石のイメージが蛮人につながったのではないでしょうか。
山のすぐ麓に「湯谷神社」という神社がありますので、神社の磐座だったようにも思えます。



“上古出雲国人が諸国を巡視してこの地に至り、里民に池を掘らせると、霊泉が涌き出せり、荒地を開墾したところ、五穀がよく成育したので、出雲の祖神大己貴命を山谷の岩上(磐座)に奉斎す。”
湯谷神社の社殿にはこのような由来があることから、祠など信仰の形跡はないが、この「蛮人岩」が磐座だったのではないかと思われます。



太尾山へは一旦下って登り返すと2つのピークの内の1つで、山頂となる「太尾山城址(北城)跡」に到着します。
途中に掘切りはありますが、城跡には何もなく少し広がったスペースがあるのみでしたが、調査では礎石建物や中国製の染付け磁器や白磁が出土しているようです。



北城跡から先へ進むと、南城跡への道と湯谷神社への下山道の分岐があり、南城跡まで歩を進める。
南城跡にも何も残ってはいませんが、礎石建物が検出されており、多くの土師器皿や擂鉢や白磁皿が出土していることから、恒常的な居住施設が設けられていたとされている。



「太尾山城址(南城)跡」まで行きましたので折り返して下山道に入り、湯谷神社へ向かいます。
崖の横にある九十九折の細い道を下っていくのですが、谷沿いの下り道で見る山の風景は超の付くような低い山とは思えない道でした。

山の中で唯一見かけた花は「コウヤボウキ」と思われる花。
かつて高野山ではこの木の幹や枝を束にして箒にして使ったという木だとのことです。



結局1時間強かけて周回し、湯谷神社に着いた後、無事の帰還のお礼がてら参拝致します。
湖北の集落で祀る神社は立派なものが多いですが、この湯谷神社も社殿は立派で末社の多い神社でした。



神社の横にある曳山の山蔵の扉が開いており、米原曳山祭の「松翁山」の姿があった。
滋賀県では「長浜曳山まつり」や「大津祭」が有名ですが、実は県のあちこちで曳山祭が行われています。
米原の曳山祭は、長浜の曳山祭に習い江戸時代後半に始まったとされ、3基の曳山の上で子供役者が狂言を演ずるそうです。





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