京都山科にある随心院は“小野小町ゆかりの寺院”として知られています。
小野小町という方の名前は誰でも知っていると思いますが、その実像はよく分っていない方であり、伝わる話は“世界三大美女”“平安時代の女流歌人”などの恋多き美女といったものになるかと思います。
和歌は『古今集』に残されてはいますが、その方面に興味のある方以外は全く分からないのが普通ですよね。
和歌に興味のない当ほうが唯一知っている小野小町の歌は百人一首で覚えさせられた一首のみです。
『花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に』
意味は調べると“色あせた桜に寄せての、容色の衰えと憂愁の心”されていますが、謎めいた作者が美女の生涯を演じきった歌のようにも感じられますね。
随心院は真言宗善通寺派大本山として、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正により991年に創建されたと伝わります。
創建時には「牛皮山曼荼羅寺」と称されており、随心院は塔頭の一つだったそうですが、1229年に門跡の宣旨を賜り、現在の随心院門跡となったとされます。
随心院は京都の寺院の例に漏れず、承久應仁の兵乱にあい寺院は灰塵と化したようですが、1599年の本堂再建以降は再建への道を歩んだようです。
江戸時代には九条家・二条家から門跡が入山し、両摂家の由緒を持って寄進再建されたといわれます。
総門から境内に入ると、寺院部分と小野小町ゆかりの史跡に別れますが、まずは寺院へと向かいます。
薬医門は大玄関につながる表門となるため一般の人間は入ることは出来ませんが、門の両横にある塀には高貴さを証明する五本筋塀がはっきりと見えます。
この薬医門と玄関・書院は寛永年間(1624~1631年)の建築で九条家ゆかりの天真院尼の寄進によるものとされます。
建物の中に入り、大玄関から薬医門を見返してみると、確かに身分の高い方が通るような造りになっています。
平安の昔にここを通る方はどんな姿で通られたのでしょうね。
随心院の受付は庫裡にあり、この庫裡は総門と同じく1753年に二条家より移築されたものだそうです。
庫裡は厨房のようなところだと思いますが、さすがお公家さんの住処は立派なものですね。
庫裡からは奥書院・表書院と部屋が続きますが、どの部屋にも各種の襖絵が見られます。
また、廊下からは手の込んだ庭園を眺めることもできます。
日当たりのいいところの苔は赤茶く焼けたように見えますが、日差しが弱まる季節には元の色に戻るのでしょう。
池の周囲にも樹がよく茂っていますが、よく整備されている印象の庭です。
当日も2名ほど庭師の方が汗だくになって作業されていましたので、季節ごとに手入れをされているのかと思います。
書院の廊下には天井から籠が2台吊るされていました。
この籠を見ていると随分重そうに見えますので、昔の方はかなりの力持ちだったのかと感心してしまいます。
建物の中で異彩を放つくらい鮮やかな襖絵がありました。
この「極彩色梅匂小町絵図」は小野小町の一生を京都の絵描きユニット「だるま商店」が描いた作品です。
だるま商店は寺院の襖絵や屏風など、また現代的なデザインで各種のコラボ作品も作られているユニットのようです。
書院で展示物を眺めていると庭の方から1頭の蝶が部屋の中へ紛れ込んできます。
よく見るとそいつはゴマダラチョウ。
ゴナダラチョウは会えないことはないが、会おうとするとなかなか出会うことの出来ない蝶ですので偶然の出会いは嬉しく思います。
書院の廊下から見えるのは「小町堂」という納骨堂です。
この寺院では小野小町にあやかって女性のための永代供養の場としてこの納骨堂を設けているようです。
さすが京都の古寺だと感心したのは1599年に再建された本堂の仏像群でしょうか。
平安期・鎌倉期を始めとする仏像が一列に安置されています。
左から「仁海僧正坐像(江戸期)」、「弘法大師座像(江戸期)」、「不動明王立像」は平安後期の仏像です。
定朝作の重文「阿弥陀如来坐像(平安後期)」、御本尊の「如意輪観世音菩薩坐像(鎌倉期)」は厨子の中でしたが、その横に安置されていた快慶作の「金剛薩捶坐像(鎌倉期)」も重要文化財。
「薬師如来坐像(平安後期)」の横には「釈迦三尊」が並ぶが「釈迦如来坐像」は室町期で「普賢菩薩像」は平安後期、「文殊菩薩像」は南北朝期とそれぞれ製作時代が違う。
予備知識なく訪れた寺院でこれだけの仏像群に会えるとやはり感激してしまいますね。
さて、境内には小野小町の屋敷跡があり、「小野小町 化粧の井戸」が残されています。
竹林の中に竹の囲いがあり、その中に井戸があります。
この日は水位は低くなっていましたが、井戸の上部まで石の色が濃い色に変わっていることから水位が高い時があることが伺われます。
井戸の水のある所へは数段の階段で降りられますので降りてみましたが、水がコンコンと湧き出す井戸という感じではなく、溜まり水のようにも見えました。
かつてここで小野小町が朝夕に粧をこらしたとされていますので、平安の昔を想像してみるのも楽しいかもしれませんね。
随心院の裏側にあたる方向には小町の史跡や清瀧権現が祀られた宮がありますのでそちらにも回ってみます。
裏へ通じる小道は塀が傾き、上には木がかぶさっています。夜ならまさに百鬼夜行の道といったところでしょうか。
清瀧権現は、随心院の近くにある西国三十三札所の醍醐寺の守護女神となっており、ここに清瀧権現が祀られているのはその影響かもしれません。
鬱蒼とした森に静かにひっそりと建てられていました。
さらに随心院の外側を回るようにして進むと「小野小町の文塚」の石塔があります。
深草少将(「百夜通い」の伝説の登場人物)を始め当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めたところと伝えられている塚です。
石碑は他にもあり、かつての金堂跡に宝篋印塔が残されています。
慶長年間に再建された金堂は1868年に再建された塔頭寺院・大乗院へと移築されたとされます。
ということはこの石碑は明治以降に建てられたものになりますね。
ところで小道を歩いている時に何とも気色の悪いやつに出会ってしまいました。
コウガイビルというようで、ヒルとはいっても人に吸い付いたりするやつとは別の種だそうですが、その姿は薄気味悪いですね。
気持ち悪いやつを見たので口直しに随心院の絵馬を貼ります。
桜が散りばめられているのは小野梅園という梅園によるもので、百人一首の“花の色は...”が小町の横に書かれています。
余談ですが、随心院へ参拝したのは祇園祭りの時期で酷暑の中での参拝でした。
境内では季節外れのウグイスが鳴いていて、山の中でもなく、また囀りの季節でもないのに囀るウグイスを不思議に思います。
夏に鳴くウグイスは繁殖期にメスとペアになれなかったオスなのでしょう。
小野小町の元へ百夜通いしながらも恋が実らなかった深草少将の悲恋を思い起こしますね。
小野小町という方の名前は誰でも知っていると思いますが、その実像はよく分っていない方であり、伝わる話は“世界三大美女”“平安時代の女流歌人”などの恋多き美女といったものになるかと思います。
和歌は『古今集』に残されてはいますが、その方面に興味のある方以外は全く分からないのが普通ですよね。
和歌に興味のない当ほうが唯一知っている小野小町の歌は百人一首で覚えさせられた一首のみです。
『花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に』
意味は調べると“色あせた桜に寄せての、容色の衰えと憂愁の心”されていますが、謎めいた作者が美女の生涯を演じきった歌のようにも感じられますね。
随心院は真言宗善通寺派大本山として、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正により991年に創建されたと伝わります。
創建時には「牛皮山曼荼羅寺」と称されており、随心院は塔頭の一つだったそうですが、1229年に門跡の宣旨を賜り、現在の随心院門跡となったとされます。
随心院は京都の寺院の例に漏れず、承久應仁の兵乱にあい寺院は灰塵と化したようですが、1599年の本堂再建以降は再建への道を歩んだようです。
江戸時代には九条家・二条家から門跡が入山し、両摂家の由緒を持って寄進再建されたといわれます。
総門から境内に入ると、寺院部分と小野小町ゆかりの史跡に別れますが、まずは寺院へと向かいます。
薬医門は大玄関につながる表門となるため一般の人間は入ることは出来ませんが、門の両横にある塀には高貴さを証明する五本筋塀がはっきりと見えます。
この薬医門と玄関・書院は寛永年間(1624~1631年)の建築で九条家ゆかりの天真院尼の寄進によるものとされます。
建物の中に入り、大玄関から薬医門を見返してみると、確かに身分の高い方が通るような造りになっています。
平安の昔にここを通る方はどんな姿で通られたのでしょうね。
随心院の受付は庫裡にあり、この庫裡は総門と同じく1753年に二条家より移築されたものだそうです。
庫裡は厨房のようなところだと思いますが、さすがお公家さんの住処は立派なものですね。
庫裡からは奥書院・表書院と部屋が続きますが、どの部屋にも各種の襖絵が見られます。
また、廊下からは手の込んだ庭園を眺めることもできます。
日当たりのいいところの苔は赤茶く焼けたように見えますが、日差しが弱まる季節には元の色に戻るのでしょう。
池の周囲にも樹がよく茂っていますが、よく整備されている印象の庭です。
当日も2名ほど庭師の方が汗だくになって作業されていましたので、季節ごとに手入れをされているのかと思います。
書院の廊下には天井から籠が2台吊るされていました。
この籠を見ていると随分重そうに見えますので、昔の方はかなりの力持ちだったのかと感心してしまいます。
建物の中で異彩を放つくらい鮮やかな襖絵がありました。
この「極彩色梅匂小町絵図」は小野小町の一生を京都の絵描きユニット「だるま商店」が描いた作品です。
だるま商店は寺院の襖絵や屏風など、また現代的なデザインで各種のコラボ作品も作られているユニットのようです。
書院で展示物を眺めていると庭の方から1頭の蝶が部屋の中へ紛れ込んできます。
よく見るとそいつはゴマダラチョウ。
ゴナダラチョウは会えないことはないが、会おうとするとなかなか出会うことの出来ない蝶ですので偶然の出会いは嬉しく思います。
書院の廊下から見えるのは「小町堂」という納骨堂です。
この寺院では小野小町にあやかって女性のための永代供養の場としてこの納骨堂を設けているようです。
さすが京都の古寺だと感心したのは1599年に再建された本堂の仏像群でしょうか。
平安期・鎌倉期を始めとする仏像が一列に安置されています。
左から「仁海僧正坐像(江戸期)」、「弘法大師座像(江戸期)」、「不動明王立像」は平安後期の仏像です。
定朝作の重文「阿弥陀如来坐像(平安後期)」、御本尊の「如意輪観世音菩薩坐像(鎌倉期)」は厨子の中でしたが、その横に安置されていた快慶作の「金剛薩捶坐像(鎌倉期)」も重要文化財。
「薬師如来坐像(平安後期)」の横には「釈迦三尊」が並ぶが「釈迦如来坐像」は室町期で「普賢菩薩像」は平安後期、「文殊菩薩像」は南北朝期とそれぞれ製作時代が違う。
予備知識なく訪れた寺院でこれだけの仏像群に会えるとやはり感激してしまいますね。
さて、境内には小野小町の屋敷跡があり、「小野小町 化粧の井戸」が残されています。
竹林の中に竹の囲いがあり、その中に井戸があります。
この日は水位は低くなっていましたが、井戸の上部まで石の色が濃い色に変わっていることから水位が高い時があることが伺われます。
井戸の水のある所へは数段の階段で降りられますので降りてみましたが、水がコンコンと湧き出す井戸という感じではなく、溜まり水のようにも見えました。
かつてここで小野小町が朝夕に粧をこらしたとされていますので、平安の昔を想像してみるのも楽しいかもしれませんね。
随心院の裏側にあたる方向には小町の史跡や清瀧権現が祀られた宮がありますのでそちらにも回ってみます。
裏へ通じる小道は塀が傾き、上には木がかぶさっています。夜ならまさに百鬼夜行の道といったところでしょうか。
清瀧権現は、随心院の近くにある西国三十三札所の醍醐寺の守護女神となっており、ここに清瀧権現が祀られているのはその影響かもしれません。
鬱蒼とした森に静かにひっそりと建てられていました。
さらに随心院の外側を回るようにして進むと「小野小町の文塚」の石塔があります。
深草少将(「百夜通い」の伝説の登場人物)を始め当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めたところと伝えられている塚です。
石碑は他にもあり、かつての金堂跡に宝篋印塔が残されています。
慶長年間に再建された金堂は1868年に再建された塔頭寺院・大乗院へと移築されたとされます。
ということはこの石碑は明治以降に建てられたものになりますね。
ところで小道を歩いている時に何とも気色の悪いやつに出会ってしまいました。
コウガイビルというようで、ヒルとはいっても人に吸い付いたりするやつとは別の種だそうですが、その姿は薄気味悪いですね。
気持ち悪いやつを見たので口直しに随心院の絵馬を貼ります。
桜が散りばめられているのは小野梅園という梅園によるもので、百人一首の“花の色は...”が小町の横に書かれています。
余談ですが、随心院へ参拝したのは祇園祭りの時期で酷暑の中での参拝でした。
境内では季節外れのウグイスが鳴いていて、山の中でもなく、また囀りの季節でもないのに囀るウグイスを不思議に思います。
夏に鳴くウグイスは繁殖期にメスとペアになれなかったオスなのでしょう。
小野小町の元へ百夜通いしながらも恋が実らなかった深草少将の悲恋を思い起こしますね。