超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

越中西部を走る

2015-12-01 06:36:25 | 旅行お出かけ
約10年ぶりに我が親類陣のルーツである富山に集った兄妹&従兄弟会だったが、私の「ついで作戦」によりほぼ追加費用なしでもう1泊し付近を観光することにしていた。従兄弟会宿泊施設を送迎バスで富山駅向かいレンタカーで移動する。晴れ渡っていると我が家のある太平洋側からは決して見られない立山連峰の雄大な眺めが見られるのだが、あいにく雨は降っていないが薄晴れで山の姿は拝めない。今回は富山県西部の高岡・氷見・新湊方面を主に巡ってみることにした。母親も富山の人間なのにこの方面はあまり訪れたことがないらしい。まず最初に訪れたのが富山県唯一の国宝、瑞龍寺である。驚くことに母は行ったことがないという。私は息子甘辛が幼い時に家族3人でゲリラ的に訪れたことがある。石川県の手取にあった(つぶれたと聞いたが復活したらしい)ウルトラマンスタジアムに行った帰りである。閉館間近に飛び込み総門、山門、仏殿、法堂を駆け抜けてわずか10分ほどで出てきてしまった。

今回はゆっくり見物したが、さすが国宝というに相応しい伽藍配置で総門をくぐって左右対称の広大な白い砂利、金剛力士像のある山門をくぐるとこらまた左右対称の美しい芝生広場に石畳である。仏殿を見学し一番奥の法堂に入ると、位牌としては最大級という前田利長公のものが安置されている。奥に烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)というトイレの神が祀られている。珍しいし貴重な気がしたのでお札を一枚頂いた。むろんトイレに貼るものだが、「画鋲を使わずに、目線よりも高い位置で、南側(北向き)以外の壁に貼ること」とされた。法堂の右奥の茶室手前に「おびんずる様」が安置されており、悪いところを撫でるとよくなると言われている。反対側の伽藍の外側には石廟が並んでいる。前回訪れた時は気が付かなかったが、前田家ゆかりの武将が並んでいる。手前から高岡開祖の前田利長公、加賀藩開祖の利家公、織田信長公、信長公側室、信忠公が祀られている。(信長、信忠も分骨されていることになっているが少し怪しいものだ)

            

瑞龍寺からまっすぐ八町通という石畳の整備された直線コースを870メートル進むと前田利長公の墓所がある。名のある武将も墓所となると意外にしょぼいことが多いが、前田2代目の殿様のお墓は手前に小さいながらもお堀があり、並び立つ灯篭と鳥居があって中々立派なものだ。富山は微妙に違うが金沢、高岡はやはり前田家を崇め奉っているところが多い。コミック「花の慶次」も含め私の読んだ歴史読み物に出てくる前田家は、初代利家は信長の家来で、下風に立っていた秀吉に追い抜かれてこの家来となって百万石を手にした「あまり美しくない」イメージがあり、2代目の利長に至っては「家康に対抗する器量はない」と母親(おまつ)自らが人質にたつ「ていたらく」が描かれているのだが、親藩でもないのに100万石という大名最大の領地を徳川幕府に分割も没収もされず大きなお家騒動もなく明治まで維持できたというのは、この国を奇跡的にうまく治めた偉大な家だとも思う。

      

次に向かったのが高岡大仏である。ナビゲーターに従って運転をして行ったが「こんな街中にあんのかよ」と思うルートを進み、自家用車が10台も置けない小さな駐車場に到着するといきなり母が「これじゃないの?」と指差したのが大仏様の背中だった。民家やテナントビルに囲まれた敷地にいきなり現れるのである。中々趣があり大仏らしい後光がさしているようだが、3大仏のうち2つが奈良と鎌倉だからスケール的にはちょっと厳しいかもしれない。(まさか「自称」じゃないよな)大仏の中には妙なコートを着たおじさんがおり、撮影ポイントや大仏内の歩き方などしきりに詳しく説明していた。(正規な説明員なのか単に年中そこにいる近所のおじさんなのかは不明)この御仁が「大仏内は必ず左回りに歩け」という。仏教では左手は不浄なので仏様の中心部側においては失礼にあたるから、常に我が身を挟んで反対側になるように、というのである。インド(ヒンドゥー教)はそう聞いたことがあるが仏教もそうなのだろか?一応、言われるままに左回りで「御体内」をお参りした。一番奥に木造の仏頭(どうやら先代の大仏様らしい)があり、自分の干支の鐘を叩くことができる。高岡大仏のすぐ横にある高岡古城公園はお堀を一周する小さな遊覧船まである広大な庭園で一角しか歩かなかったが始まった紅葉が緑と相まって美しかった。

      

高岡の主要な観光は済ませて母は満足していたようなので、昼御飯も兼ねて次なる地、氷見へ向かうことにした。ちょっと「道の駅」のような観光地っぽいのだが「るるぶ」に載っていた「氷見番屋街」という海沿いの施設である。「ブリ」や「うどん」で有名な地で、ここの海側の展望台から眺める富山湾を挟んだ立山連峰の雄姿を期待していたのだが、残念ながら曇ってしまい向こう側は見えなかった。連休中なのでやたら混んでおり、観光地に厳しいNおばさんが「あんなとこ、いっちゃだめだがいね」と酷評する施設を後にして、毎正時間、忍者ハットリ君のからくり時計を見物した。母が「寿司を食いたい」というので、観光案内で教えてもらった市街地周辺のお店を回るが、時間が中途半端だったのか、信じがたいことにどの店もやっていなかった・・・私たちはがっかりして最後の訪問地新湊に向かった。

      

海王丸パークに到着したのが15時頃ですでに陽が傾きかけていた。この地も最近できたという新湊大橋の雄姿と「海の貴婦人」といわれた帆船「海王丸」、バックに立山連峰を一望できる素晴らしい景観スポットだそうだ。海王丸の中はかなり細部まで見学でき、練習生の航海生活などが展示されていたが、狭い階段の上り下りが多く年寄にとっては少ししんどかったようだ。さすがに昼飯を食いっぱぐれかなり空腹だったので近くの「きっときと市場」に立ち寄ったがどういうわけかこの施設でもメニューに「寿司」はなくお馴染みの海鮮丼を頼んだ。市場の名産品などをひと通り見て回っていると何やら巨大なイカが見えてきた。世界最大の「ダイオウイカのするめ」だったのである。そう言えば少し前に富山でダイオウイカが上がったというのをニュースで見た。商魂たくましく「試食会」も企画されちょうだが(ちょっと食べる気はしない)「するめ」になっていたとは・・・・!?

            

市場は店じまいの準備に入り出てくるころには薄暗くなってきていた。夜は市内のホテルを予約してあったが、近くに住む叔父夫婦と会食する約束になっていた。観光地豹かに厳しい例の叔母さんもいる。早速その日に巡った名所の数々をお話しすると、氷見番屋街以外は順当なコースであるという。翌日はほぼ半日しかないので、ガイドブックで見た近場のお寺やミュージアムなどを挙げたがどれも笑って却下・・・日本一の落差を誇る「称名滝」は素晴らしいが自家用車が入れなくなって1時間半も歩かねばらなないから母には無理。「五箇山行ったらいいねかいね。山(立山連峰)が見えない時って富山は見るとこないよ」この一言で我々は昨年に続き「世界遺産」見物を強行することにした。

中学生の時くらいに親族に不幸があって一同が集まった時に子供たちはつまらないだろうと、バスで連れて行ってくれたのが越中五箇山合掌造りの集落だ。富山市中心部からは60kmくらいあり、東海北陸道がなかった当時は一般道をバスで向かうと片道2時間以上かかった。私はサッカー部バリバリで、集まれば公園で「泥警」やら「かんけり」に夢中になって走り回っていた子供たちである。「バスで何時間もかけて古臭い田舎の家を見物して何がたのしいのか?!」引率者には申し訳ないが「死ぬほど」退屈だった灰色の記憶がある。あいにく天気は崩れ昼過ぎからは雨が強くなる予報だったが、やはり「訪れたことがない」という母と「いっそのことだから行っちゃうか」といつもの「ついで」のノリで朝早めにチェックアウトし、一路世界遺産に向かったのである。

五箇山には相倉と菅沼という大きな集落が2つあり、どちらも行って近く富山からは1時間くらいで行けそうだ。最初に訪れたのが相倉集落で、天然のブナ林に囲まれて20棟の合掌造りが現存している。民俗館や伝統産業館、また観光客が宿泊できる施設になっている家もあるが、今だに普通の生活をしている家もあり、農業用の軽トラや乗用車も見られる。合掌という祈りの形式を表す造りはとがった屋根の形状からも伺えるが釘や鎹(かすがい)を一切使わず、丸太を荒縄やネソと言われる柔らかくした木の幹を使って結合させる建築工法である。2階には養蚕を営むことが多かったというのが意外だった。係員の説明によると、遺産指定のエリアは現存の建物の修理などはよいが、老朽化により取り壊したり、別の土地に新しい建築をしていはいけないそうだ。さすがに住民が生活しているので雪が無い時は車両を家屋脇に駐車してあるが、真冬になって雪景色となると「景観を損ねる」ために全ての車両は結構離れたところにある集合駐車場に「疎開」しなければならないという。「世界遺産」を維持ということはそこの人々の努力と犠牲の上に成り立つというのがよく分かった。

        

もう一つの菅沼集落は合掌造り家屋こそ9棟だったが比較的観光地化が進んでいるようで、民俗館やら塩硝の館などの他にお土産店や宿泊、和紙作り体験館などちょっとしたテーマパークのようだった。五箇山という地は幹線道路から少し入ったところの一角にいきなり現れるが、やはり地理的には山深い幽谷と言ってよいところである。塩硝というのは「火薬」のことであり、これを収めた先の加賀藩にとって最高級の機密保持用件から閉鎖的な環境におかれたという。自然や政治的環境とこれに適用した特殊な生活様式、知恵がそのまま現存している、というのが「世界遺産」たるゆえんのようだ。35年の時を経てこの文化遺産の意義がようやく伝わってきた。

    

両集落とも距離は近くそれほど長時間見て回るほどではないから、ちょうど午前中で見学を終えて帰路に着くことができた。雨が降っていた分、霧が立ち込めて幻想的に見えるところもあった。夜はライトアップもされ雪化粧をまとった姿はそれは美しいだろうが、訪れるのも大変そうだ。新幹線の時間まではまだ余裕があり「富山湾の寿司、結局食べなかったねえ」と名残惜しそうにしているから、母の記憶を頼りに国道沿いにあるという昔からの老舗の寿司店に寄ることにした。おまかせでウニ、イクラ、甘エビ、大トロ、ノドグロに名物の白エビにブリ・・・ようやく海の幸にありついて満足した富山旅行だった。