超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

映画(館)観

2015-05-29 21:54:30 | ホビー
最近見た「映画」と言えば「・・・滅びの美学」編で書いた、北野監督最新映画である。二子玉川ライズという、GW中にオープンした巨大な街にあるシネマコンプレクス(たぶん同じ映画館で複数のシネマを見られるという意味だろう)で上映開始の舞台挨拶が行われる時に運よく妻がチケットをGETしてくれたのだ。シネコンというのは辻堂の巨大モールにもあるし、ちょっと古くは茅ヶ崎サティ、平塚オリンピックシティ、海老名ビナウォークなどにもあった。妻と訪れたのはかなり久しぶりだが、息子甘辛とはウルトラ映画や仮面ライダー、そしてゴジラ、はたまた一時アニメの実写版化が流行った時のヤマト、ハーロックに加え、彼独自のワールドとなった「とある魔術の禁書目録」など現代のアニメ主体となった作品を中心に年に何度か映画館に足を運んだ。そしてのその度に「映画館とは快適になったものだ」と感じるのだった。座席自体も大きくて柔らかいし、前席とのスペースもあるから足が窮屈なこともないし、音も綺麗で臨場感が素晴らしく、何よりも絵が飛び出てくる「3D仕様」というのも標準となりつつある。超話題作品ではないからか、さすがに立ち見の連続ということもなくゆったりと鑑賞できるが、レンタルDVDや大画面テレビの普及等で衰退の一途かと思われた映画館もしぶとく時代に適応していると感じる。

子供の頃、圧倒的に映像を占めていたのはテレビだったが、ごくたまーに街の映画館に足を運ぶことがあった。今のように郊外型ではなく駅前の小さなシアターである。チャリで行ける行動半径しか持たなかった私は茅ヶ崎駅北口にあった東宝と南口にあった東映しか知らなかった。東宝と言えば「チャンピオンまつり」、長嶋茂雄の「栄光の背番号3」と海底大戦争、モスラなどが同時上映されていた。一方、東映と言えば「まんがまつり」、こちらの方は仮面ライダーとか女の子アニメが混じっており、公開本数は多いがあまりパッとしないものが多かった。東宝は早々と潰れてしまい、このため当時の「ゴジラシリーズ」はほとんど見ることができなかった。中学生になってから「宇宙戦艦ヤマト」が社会現象になるほど人気爆発し、劇場版を見に行ったのが藤沢の映画館(たしか「みゆき座」?)、この時小さな映画館は通路まで人で溢れかえっていた。これ以降、「さらば・・・」から「完結編」まで劇場版を見に足を運ぶことになるのである。その後、話題となった作品は結構見に行っているが、約30年前に復活したゴジラから亜流モノも含めてこのシリーズと周辺ちょろちょろ、時代劇や洋画も何となく面白そうなものをチョイスして脈絡がなかったので、劇場で観た映画を語る題材としては著しく貧しいと言ってよい。

ちょうど私達の年代が「テレビ全盛」でとにかく番組をよく見ていた頃に「ロードショー」(たしか金曜とか土曜)や「洋画劇場」(こちらは土曜とか日曜)で過去の名画や上映後数年の話題作などを放映しており、過去の名作と言われる作品や数年前上映された話題作など幅広く放映されていた。ただ家族がテレビのロードショーなどあまり興味がなかったので、30分のアニメものならともかく、2時間もテレビを占有するのはよほど強く主張しないと認められなかったし、他によりどりみどりだったのでそこまでして見たいとは思わなかった。「いやー、映画ってホントにいいもんですね」という故・水野晴郎さんや「怖いですねえ。恐ろしいですねえ。それでは次週お会いしましょう。さよなら、さよなら、さよなら」の故・淀川長治さんのイメージばかりが強かった。彼らは時々「映画の世界」の魅力を滔々と語るときがあった。「○○という作品に主人公の父親役を演じていた▲▲、当時はまだ無名でしたが、父子の細やかな愛情を熱演してのが印象的でした・・・」などと。しかし映画人ではない我々子供は見たこともない映画のことを熱く語られてもよく分からず、何となくいわゆる「名画の世界」というのは「過去に映画が全盛だった」頃の別世界に思えた。

ビジュアル機器といえば「コンポ」が来てから1,2年後、オーディオ・ビジュアル家電装備の進む我が家にやってきたVTRの登場は「ゴジラシリーズにキングギドラが登場した時」のように衝撃的だった。何せ、それまではラジカセのマイクをテレビのスピーカーの前に置いて息を凝らし、雑音混じりの「音だけ」でも十分楽しんでいたのである。好きなテレビの好きな場面を後から自由に見られるなど「夢の世界」だった。アニメやバラエティ、ロードショーなど手当り次第に録画して貯めて行った。さらにレンタルビデオ屋というのが登場し、ほぼ「好きな時に」見たいものが見られるようになった。ただ残念ながら我が家のVTRは「ソニー信奉派」だった父親の主張により「ベータ方式」であり、VHS方式との数年間の戦争の後姿を消していくことになる。その後、ディジタルAVとして「レーザーディスク」というレコードとDVDのあいのこみたいな機器が登場したのだが、機器もディスクもやけに値段が高くまたコンポに組み合わせることができなかった。さらに自ら「森高千里教信者」を名乗り、LD音質と映像の素晴らしさにハマった悪友にスキー帰りに自室で「ライブ・アルバム」を繰り返し鑑賞させられ「洗脳」されそうになった経験からレーザーディスクには何となくいい印象をもっていなかった。今やテレビは大画面、ネットのVODも発達しさらにサウンド系も進化してホームシアター化し、「ソファに座ってグラス片手に」という憧れのスタイルも難しくはなくなったが、これら最新のシステムをもってしても、VTRが登場した時からある重大な欠陥が存在する。「見る時間がない、あっても使うのがもったいない、そもそも見る気にあまりならない」ということである。(全然、身もふたもないじゃん。。。?!)

考えてみればハードディスクレコーダーには「おーっ、これは!」という番組が片っ端から録画されているが、毎週(毎日)の繰り返し録画に視聴が追い付いているのは「みなしごハッチ」のみ。「赤毛のアン」も「怪奇大作戦」も借金まみれ(未視聴が雪だるま状態)で家族から立ち退き要求が出始めている。こんな簡単なこと気付きそうなものだが、晩飯晩酌時にテレビの前に座って放映されているのを見るなら、その時間は自動的に視聴に費やされるのだが、録画したものは「視聴用の専用時間」をあらためて作らなければならず、そんな時間が私にはないのである。いやいや、つくづく、暇な私なので時間が作れないということはありえない。ただ天気の良い昼間にゴロゴロ数時間も録画を見て気がつくと暗くなっているとものすごく時間を無駄に使ったような気がしてそれこそ気分も暗くなってしまうし、夜は夜で出掛けてしまったり、家族でお笑い(最近はクイズもの)を見ながらだらだら飲んでいる。結果録りダメした番組を見る主な時間帯は何と早朝サーフィンに行くさらに前、まだうす暗い頃になってしまっている。つまり「見る気になるチャンスが希少」なのである。借りてきたDVDも当日に見なければ結局見ずに返却する羽目になる。

映像として知覚されるコンテンツとしては同じかもしれないが、「やっぱ映画って別格というか、別世界だな」という感覚はずーっと子供の頃からあった。大きなスクリーンの迫力ある映像や段違いの音響、3Dの臨場感などももちろんそうだが、もっと高次元の「何となく」感じていたことだ。つい先日は「舞台挨拶」という初経験があったが、やはり「映画って違うよなあ」と感じた快いもやもや感を「ばばばーっ」と払拭し「なるほど、そうか!」と電光のように閃かせる本にひょんなことから出会った。友人が某SNSサイトで「カフェで読んでいたら涙ぽろぽろ・・・」と投稿していたのを「こそ読」したものだ。誰か(自分の興味ある人が多い)が執筆したコラムや「面白い」と評した著書、「あの人が感動したと聞いた」第三者コメントなどもとに、自分に直接薦められたわけでもないのに、「こっそり」読んで、「なるほど、こりゃー・・・」と何かと語るのが「こそ読」である。「劇場には『映画の神様』がいる」というもので、「映画が大好き」という人なら一瞬で引き込まれ、そうでもない私などでも「何か映画館で映画を見たくなる」ような話だった。

登場人物とごく一部の下りだけ書くと、シネコン企業のキャリアウーマンとして挫折した映画好きの40歳独身女性のあゆみ、それ以上に映画好きだが酒とバクチで家族にとってはいいとこなしの父親、昔の連れ添いという感じで父親を見捨てきれない母親、ひょんなことからあゆみの映画館評に目をつけた映画雑誌の編集長とその同僚たち、あゆみの元同僚で米国に旅立ったよき理解者である後輩の清音、あゆみの父親が入り浸った小さな古い映画館の主、持ち数は少しずつ違うが登場人物みんながまんべんなく「この人、こういうところ、いいよねえ」というほっこりシーンがあり、物語全体が「何か、いいよねえ」という感じでまとまる。電車の中で読んでいて「うーむ。やべえ・・・」とうるうるくるところも結構あった。途中から「一世を風靡したが時代の流れに乗りきれず潰れかけた映画館の物語」となり、そういうのは結構世にあるような気がするし、小説的にはちょっとベタな展開で途中から先が読めてしまうところもある。ただ単純に「人はなぜ家でDVDを見ずに映画館に足を運ぶのか?」というのがテーマだとすれば、思わず膝を打つようなくだりがある。

あゆみはキャリアウーマン時代にシネコン部門で「映画館の臨場感こそ『娯楽』を追求した人類が獲得した至宝・・映画館は一級の美術館であると同時に舞台、音楽堂、心躍る祭りの現場である」という感じの企画提案をする。父親はひょんなことから、昔の名画評についてブログ投稿を始めるが、そのきっかけとなった映画館評というのはさらに娘の上を行く。「劇場のどこかに一緒に映画を見つめる『神様』の存在を感じる」というのである。「映画館は『娯楽』の神殿のようなところであり、あの場所は一歩踏み込めば異次元になる結界だ。映画は結界に潜む神様への奉納物である」と。
私は映画や映画館について熱く語るほど思い入れはないから「神様がいる」とまでは正直思わないが、エントランスから先が「異世界」でスクリーンの前に座って映画が始まると「結界」が張られるという気分は何となく分かる。それは映画が終わった時に特によく分かる。物語が終了して流れるエンドロールを眺め続けても仕方がないのに、すぐに席を立たないのはヨガクラスの最後に行うシャバーサナみたいなものか?ぼわーんと照明が明るくなって、ようやく我に返るような感触である。DVDや撮りダメした録画を見る時間を費やす気になれないが、「神殿に詣でるため」なら出る時に外が真っ暗になっていても時間を無駄にした気にはならないのだろう。私は一人で映画を見に行くことがないから、次に足を運ぶ時は家族か友人だろうが、この「異世界感」を感じるかどうか、ぜひ話し合ってみたいと思う。

ちなみに今回出会った本は「原田マハ」という一風変わったネームをもつ作家の著書だが、先日会社の「同門の懇親会」で久々に会った「本の友」に「読んでみな」と貸してしまった。またその他の「友」にも「面白いよ」と紹介しておいた。ちょっと言いたいところもある物語なんだが、中心となる名画「ニューシネマパラダイス」と「フィールドオブドリームス」はDVDでよいから観てみたいと思う。(それによって少し感想が変わるかもしれないし)
この本を最初に面白いと言った知人とそれを紹介したら「これも面白いよ」と返してくれた知人が同じ本のことを薦めてくれたので、次はこれを読むことになろう。映画と本の世界が同時に広がれば喜ばしいことだ。