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超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

エースをねらえ!

2010-04-09 03:03:04 | 書籍
ひょんなことから、我が社の社内紙に載せられた記事を読み、思わず膝を打ってその著書を読み漁った先生がいる。
私よりも15歳くらい年上で一世代上の方で関西の女子大の教授をされているが思想家兼武道家として結構有名な人のようである。
当人はご自身のホームページで好き勝手なことを書いて、敵も多いようだが論理展開が痛快でうなずける。「おおっ、これこそオレが言いたかったことなんだよ!」と思いこめるようなところがかなりある。

最も気に入っているのは、その人が自分にとっての知識・教養その他の指南書は「マンガ」であると言って憚らないこと。
子供の頃、我が家は「マンガフリー」であった。両親は昔の田舎の人だったので、全くマンガなぞに興味を示さなかったが、勉学や運動など「やることをやっておれば」むやみに禁じないスタイルだった。
厳格な両親に「マンガ」を禁止されていた、同じ県内に住む従兄弟は我が家のスタイルをとても羨ましがり、遊びに来ては延々と私の貯蔵するマンガを読み尽くしていた。

一人暮らしのときは1000冊を超すマンガを貯蔵していたが、残念ながら結婚したときにすべて売り払ってしまった。
「こちら葛飾公園前派出所」と「ゴルゴ13」を全巻持っていたのが自慢だったのに。。。


教養とまではいかないが、私の引用する文言や知識はかなりマンガを起源とするものが多い。雑学系もマンガが主な情報源で、そのことについては少し劣等感があり、あまり公にはしてこなかった。
だからその先生のように「自己の教養はマンガが起源」と公然と言われるとすごく勇気がわくのだ。

そして彼のこれまでのホームページで頻繁に引用される少女マンガがある。
特に「学ぶこと」に関する基本姿勢、師弟関係、生き方そのものもそのマンガがかなりロールモデルになっているいう。。。
「エースをねらえ!」である。

   


さっすがにあの「目がキラキラ大きいお嬢様」と「髪の毛ウェーブのイケメン男性」シリーズは守備範囲にはなく、アニメソングは知っていたが、宗方コーチ、岡ひろみ(なんと美術の教科書に名前だけは出ていた)、お蝶夫人というキーワードしか知らなかった。
情熱だけはあるがテニスそのものはヘタな少女がコーチにその可能性を見出され、それこそ命をかけたコーチングに全身で応えた結果、誰にもできない道を切り拓く、ってな感じで理解していた。
しかし、その先生によると、ところどころのセリフとかにビチアス海淵のように深ーい含蓄があったようなのだ。

ヒロインのひろみが恋する相手、一つ上の籐堂という男子のエース格選手には宗方コーチが「女を成長させない愛し方をするな」と意味深なことをのたまうそうだ。
なんだかピンと来なかったのだが、あの舌鋒をもつ人が崇拝する「マンガ」なら読んでみようかと、私は自ら禁断としていた少女マンガに手を出したのである。
私が今通勤途上で読んでいるのは宮城谷昌光の「太公望」だ。「エースをねらえ」は全18巻だから2冊ずつくらい持って、この合間に読む ことにした。

私は我ながら感心にもこれから仕事に行く出社時のホームライナーでは「マンガ」は読まないことにしている。
従って仕事から解放された家路に向かうために乗った湘南新宿ラインで「立ち読み」をすることになる。
ブックカバーなんてないから、剥き出しで読むのだがこれが結構恥ずかしい。皆、顔には出さぬが「いったいこの男はなんでこんなマンガ読んでるのよ」と思われてるだろな。

最初の3巻くらいは正直退屈だった。宗方コーチの岡ひろみへの入れ込み方が突拍子もなさすぎて無理があるように見えるのである。
しかし真ん中あたりであろうか。「もしかしてここか?!」という自分的には驚くべき名場面に出会った。
それは「この一球は絶対無二の一球なり」というくだりである。

宗方コーチはその昔、テニスの名選手であった。名実ともに絶頂にあったとき、突然の病気で再びテニスができない身体になってしまった。
自身の不幸を嘆くのはもちろんだが、「自分にいつかプレイヤーとして終わるときがくる。」ことを想像すらしたことがなかったのを深く悔いるのだ。
そして愛弟子の岡ひろみを導くのだ。「お前はオレの落ちた落とし穴に落ちるな」と。

「この世のすべてにおわりがあって、人生にも試合にも終わりがあって、いつとは知ることができなくても、1日1日、1球1球かならず確実にそのおわりに近づいているのだ。
だからきらめくような生命をこめて、ほんとうに二度とないこの1球をせいいっぱい打たねばならないのだ。」

やがて宗方コートは死んでしまうが、このタイトルの重要な一面がここにあるような気がする。

息子甘辛の卒業を「カウントダウン」した気分にも通じるものがあるな。「もう終わり」と思うからかけがえのないものが見えることが多い。
そして驚くべきことに作者・ジャンルなどに全く関係することのない中国歴史叙事詩である「太公望」にも類似したくだりがあったのだ!

太公望は名前くらいは有名だが、中国古代の英雄である。
ときの中国中原を支配していた商という王朝に一族を殺されてしまう。望は「孤竹へ行け」という父の最後の叫びに従って生き残った幼い仲間とともに、その地へ向かって悪戦苦闘の旅をする。
その途中で少年の(太公)望は・・・

「---孤竹へゆくことのたいせつさは、到着することではなく、途中にあるのではないか。と気付いた。ほかの願望や目的も同じであろう。この世に生まれた者は、かならず死ぬ。だが、死は人生の到着点でありながら、それは願望でも目的でもない。生きるということは、すべて途中である。その途中こそがたいせつではないのか。孤竹へゆきたいと願い、孤竹は目的地にはちがいないが、そこにはおそらく何もない。あらたな途中があるといったほうがよいであろう。---」

「終わりがあるから途中を大切にする」という点で両者は同じようなことを教えているように思えるのだ。
私も「おじさん」の領域に入ってしまったから、この教えはよーくわかるつもりだ。
しかし、いつもいつも「終り」があることを意識してしまうと、何か物哀しい気分にもなってイマイチだ。「しばしば」考えることにしようかな。

っと、ここまで書いていて我ながら「まあ・・・なるほどね」で済むのだがところがである。。。
実は「エースをねらえ!」の真髄は宗方コーチが死んでしまった後にあるような気がするのである。
お蝶夫人に憧れ手引きされて、宗方コーチに見出され、導かれて「世界を意識できる」実力を蓄えた岡ひろみだが、突然やってきたコーチの死に当然「茫然自失」する。

この岡ひろみを立ち直らせ、「慟哭の中にこそ真理があり真髄が見える」と世界へ飛び立たせるため、桂コーチやお蝶夫人はもちろん、家族、恋人の籐堂、チームメイトそして「ライバル」までもがそれこそ「壮絶に」ひろみを「支える」のである。
桂コーチは宗方コーチの親友でありライバルであったが、自分が発掘した選手は自分が生きている間には完成させることができないと悟った宗方コーチに後を託され、そのとおり岡ひろみを立ち直らせる。

第一人者となってしまうと、相手にくまなく研究され尽くされる現実を示すためあえてスパイになる外国人選手。
自身も国内有数の実績・実力を持ちながら、岡ひろみを筆頭に世界プレーヤーを作るための捨石になることを決意する籐堂。
「日本庭球界の夜明け前はいつまで続くのか」という父、竜崎理事の言葉に「わたくしがやる」と言ったこと自体がそもそも間違いだったと気付き「そもそも天才とは無心なのだ」と、あえて自らは退き岡ひろみの心のパートナーとなったお蝶夫人。

すべて「人が人を支えるとはどういうことか」というのがこの物語のメインテーマのように思えてくるのである。
私は兄妹がおらず、甘辛も一人息子、岡ひろみも一人っ子だ。私は迷わずに息子にこのマンガを読ませた。
「誰が好きか?」と単純に尋ねたら、「桂コーチ」と即座に答えた。この答は彼が成長するに従って変わってゆくかもしれない。。。

さすが、私の敬愛する先生が「人生読本」というだけのことはある。
今まで主題歌しか歌えなかった「エースをねらえ!」だが、こうして私の「座右の銘」入りを果たした。。。
これから色々な場所で引用されることになろう。知らない人は全く意味不明であろうが。

  

右大臣実朝

2010-02-10 22:09:31 | 書籍
「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ、滅亡セヌ」

「ひょんなこと」からある経済紙を読んでいて、この言葉に再会した。実はこのフレーズに出会ったのは、今を遡ること約30年も前の話なのだ。当時中高生だった私は別に読書少年だたわけでもない。
太宰治という名前は知っていたが、読んだことあるのは教科書?に出てきた「走れメロス」くらいのどちらかというと、本など読まない少年だった。

出会ったのはズバリ「宇宙海賊キャプテンハ―ロック」。テレビ版は我が家に全巻揃える「ウルトラセブン」と並ぶ不滅の作品だ。
松本零士の作品として有名な「銀河鉄道999」にもたまに現れるキャラだが、オリジナルは当時爆発的に人気があった「宇宙戦艦ヤマト」に比べれば、かなりマイナーで見ているクラスメイトも数えるばかりだった。
写真は最終回の最後のシーンに現れる謎の言葉。。。

ハ―ロックが大好き(ヤマトでは島大介のファン)という隣席の女子に惹かれていた私は、最終回のあのシーンを見て「いったい何が言いたかったのか?」という話題で二人で盛り上がった。
途中まではわかりやすいのだが、どうも最後のシーンだけは中高生の私達にはわかりにくかった。
どころか、つい最近までわからなかった(わかろうとしなかったとも言える)ところだ。

物語そのものは「ヤマト」同様、それほど難しいものではない。
「地球の海が死滅した時、人々は言った『人類の終わりの時が来た 』と。頭上に広がる、無限の宇宙になぜか目をつぶり、人類の行く末をひたすら嘆いた。・・・・・これは、そう言う時代の物語である。」 ---- 第一話のオープニングナレーションより

地球人は物質文明の極地に達し、惑星からの資源によって自身は働く必要もなく、無気力・怠惰に日ごとの娯楽にうつつを抜かしていた。
そこに故郷を捨てて新天地を目指し怒涛のように進撃してくるマゾーンという宇宙人が侵略してくるが、ハ―ロック率いるアルカディア号の海賊40人が敢然と立ち向かいこれを追い返す。
「自由の旗のもとに」を合言葉に海賊旗をはためかせ、宇宙の海を暴れ回る・・・私の「ドクロ好き」の所以である。

戦いが終わり、ハ―ロックもまた考える。なぜマゾーンに勝てたのか・・・
「自由を望む41人の人間の強い意志と団結が女王の権力で引き連れられてきた何万もの兵士に勝ったのだ」
最終回ではこんなナレーションで締めくくられる。ここまでは誰でもわかるような気がする。。。しかし最後にあのメッセージだ。

「右大臣実朝」からの引用というのはテロップに流れた。何度か図書館で太宰治全集を眺めてみたが、古文が混じっているうえに独特な文章で読みづらく、最近になるまできちんと読み通してはいなかった。。。
しかし、たまたま読んでいた別の書籍に全く同様のフレーズが現れ、いよいよ改めて読んでみる気になったのだ。
それまでは「実朝」とは源頼朝の子で鎌倉幕府三代将軍、鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺される、という教科書通りの知識しか無かった。

戦国期、幕末期、明治初期、そして中国古代については貪るほど歴史小説を読み尽くしてきた私であるが、どういうわけか源平期や鎌倉期は好きになれなかった。
それぞれにドラマがあるのだが、権力闘争が複雑でどうにも暗い感じがぬぐえなかったのである。
はたしてどのような場面でハ―ロックのフィナーレを飾ったあの言葉が出てくるのか

あの太宰作品はどこまでフィクションなのかわからぬが、実朝という将軍は若くして将軍職に就き、「貴族とはこういうものか?!」というような高貴なオーラをまとい、霊感的とも言えるあらゆる分野で優れた能力を発揮していたようだ。
厩戸皇子(聖徳太子)に憧れ、学問や和歌に対しても抜群の資質を示し、渡宋も計画したらしい。
実朝は平家物語を好んでいたようだ。それも源家が勇ましく平家に打ち勝つシーンではなく、平氏の鷹揚な生き様を。。。

「平家ハアカルイ」

平家物語で平氏が全盛を誇るくだりで上の謎のような言葉が出る。
実は冒頭のあの言葉は実朝が平家物語の最後「壇の浦の戦い」を聞き終わった後につぶやいたものだった。
貴族的な雰囲気を身にまとい政務にも和歌にもきらめく資質を見せながら二十歳を過ぎて年齢を重ねるに従い、まるで意図的かと思われるようにその生活態度が豪奢になっていく。
まるで「自分の滅び」を予見するかのようだ。そして武家としては初めての右大臣に昇進した翌年に運命の凶事に見舞われる。。。

何となく意味がわかってきたような気がする。
戦後の復興期を経て成長率二桁を誇った高度経済成長期。。。きらめく奇跡の後に失ったものは・・・
「24時間戦えますか!」と歌われ日本中が熱にうなされたバブル全盛期の華やかな時代。。。その後にやってきたものは・・・
インターネットで何億円も稼ぎ出し、ベンチャービジネス戦士がもてはやされたITバブル期。。。その後ホリエモンに起こったのは・・・

前回、ご紹介したビジネススクールでも、どうもシステムよりも人間重視のような傾向を感じた。欧米の華やかなりし合理化経済の行き詰まりも。日本企業の特徴もよく取り上げられていたし。
卒業セレモニーが終了すると、私はそそくさと一番早い便で妻と息子が待つニューヨークへ飛んだ。
ボストンでのセレモニーまで来させるのは少し不安だったので、落ち合う約束をしていたのだ。

初めてのニューヨークに前日やってきた彼女らは、お上りさんらしく「自由の女神」とか半日観光を楽しんだそうだ。
ヒルトンホテルで待ち合わせし、街中を歩きまわった。ニューヨークのトイザらスなんか店内に観覧車があるのだ。
観光の相手をしてくれた案内の人に勧められ、ニューヨーク自然史博物館を見学、セントラルパークで早速トイザらスで買ってきたラジコンの円盤君を飛ばす。

当時日本では食べられなかった牛丼を食し、至るところを歩き回った。
「すげえ街。。。」息子は目を見張っていた。やはり東京とは違う雰囲気を感じ取ったのかな。
タイムズスクエアで記念写真を撮ったが・・・あそこも少し明るすぎるような気がするなー。

「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ、滅亡セヌ」

へんないきもの

2010-01-28 22:22:04 | 書籍
以前(成人の日?)紹介したことがある「へんないきもの」についての話題だ。
年末のクリスマス会に呼んでいただいたお友達の家にこの不思議なタイトルの本が並んでいた。
子供向けの本なのかな?と思いながらちょっとパラパラめくってみると、結構専門的なことも書いてあるが実に面白い本であった。

ほとんどが聞いたこともないような奇妙な生物だが、これまた以前に息子甘辛と朝連をやりながら海浜公園で発見したヒモのような奇妙なヤツ(コウガイビル)が載っており、親近感が持てた。
イラストがものすごくリアルで、こんなヤツと遭遇したらビビるだろな、という見た目も性質も怖いモノがメジロ押しだ。
本文は著者の独特なセンスが光り、大人向けのウィットや社会風刺、皮肉っぽい表現も結構見られ中々知的好奇心をくすぐられる。

たまたま図書館で続編を見かけたので借りてきて、面白いから初編も読み、さらに小説版「へんないきもの三千里」も読破した。
子供の頃から普通に「いきもの」には興味があり、ペットも飼ったし虫も捕ってきたが、最近少しずつ虫や小動物が触れなくなってきたことに気付いた。
トンボやバッタなどメジャーなヤツはOKなのだが、コオロギ、スズムシあたりになると既に怪しくなり、最初の押し出しが強烈なカエルや蛾などに至っては逃げ回るていたらくだ。

「オーシャンズ」という映画もあるように、昔から動物ものの番組はコンスタントに生き続け、やはり何となくよく見てきた。
古くは「野生の王国」、「わくわく動物ランド」「動物奇想天外」・・・それほどハマり込んだわけではないが、害がないので見る番組があまりないときのツナギとして親しんできたようだ。
いつの時代も「動物の面白い習性」というのは興味を持たれるらしい。

「へんないきもの」シリーズはそのうちのゲテモノだけを集めたようなものだ。音波兵器を持つエビ、足が85本のタコ、目から血を吹くトカゲなど・・・
本を紹介してもしょうがないが、私がどうも気になったベストスリーは

クマムシ:ぼくとつな名前の超生命体
体長は1.7ミリほどだが、摂氏150度の高熱にも絶対零度にも、真空にも乾燥にも6000気圧もの高圧や人間の致死量をはるかに超える放射線にも耐えることができる不死身の生物だ。
地球が破滅しても宇宙空間を漂い、別の惑星で繁栄できそうだ。

キロネックス:骨なしの悪魔
前にテレビで特集していたのを見たことがある。触手が2メートルもある地球で最も危険な生物と書かれている。刺されると四の五の言う暇なく呼吸困難、意識混濁などに陥るという。生息地のオーストラリア北部には生命の危険があることを表す標識もあると言う。これ自体が好きなわけではないが、この猛毒をものともせずに平らげるのが、ハワイ島で見たウミガメだと言うのが気に入った。

クダクラゲ:(株)深海浮遊事業KK
地球上で一番長大な生物はクジラでもヘビでもなく「クラゲ」だという。何せ体長40メートルにもなるそうだ。
成長の過程で分裂して増える期間があり、それぞれが別々の固体にならずに、融合を繰り返して体を構成する各器官に変身し1匹の生物として振舞うんだって。
まるで怪獣映画のモデルそのものだ。

どれもこれも「変」ではあるが、考えてみれば生物そのものがすべからく奇妙なものだ。
人間は60兆の細胞からできていて奇妙さはかなりなもんだが、それぞれ機能を持つ器官は実に合理的にできており、かなり完成に近いとことろまで進化してるような気がする。(医学知識は無いけど)
惜しむらくは大脳が発達し過ぎたために「余計なこと」を考えるようになったこと。ネオダーウィニズムがホントならこの先ヒト科が何万年も存続するためには、脳を若干退化させる必要があるだろう。

本の中では途中で、「へんな名前のいきもの」も取り上げられている。
「ヨーロッパタヌキブンブク」から「エンカイザンコゲチャヒロコシイタムクゲキノコムシ」
宴会ばかりやっている山に住むこげ茶の浩子が、ムクゲに生えたキノコを敷いて御迎えした虫?!
傑作なのはやはり「ウルトラマンボヤ」・・・群体性のホヤの一種らしい。
姿がそのもの(顔)ズバリで「シュワッ」「アワッ」「デヤッ」や虚ろな顔で「ゾフィゾフィゾフィ・・・」と言うヤツもいそうだ。

最後に読んだ「へんないきもの三千里」は小学生の少女が主人公のかなりリアルな物語だ。
好きな男の子と仲良くなるために究極のおまじないとして調べた「カエルの背中を舐める」暴挙に及んだ「いきもの」の大嫌いなセレブ少女が、生き霊のように身体を抜け出し生物界に放り投げられる物語である。
それはそれは散々な目にあうことになる。サムライアリの奴隷にされたり、ヒトに食われて免疫防衛軍と闘ったり取引したり・・・

色々なところで目にする生命どおしの関わりは「壮絶」の一言につきる。ここではこれまで取り上げられた「へんないきもの」がよってたかって主人公の少女にその生態を見せつけるのだ。
少女の実際の家族が不和で崩壊していく様など、かなりリアルでえぐいが、相当深みのある読み物だ。
単なる生き物賛歌ではない。「生き物の食べ物は生き物」というくだりがズンと重く響く。
うまく言えないが読み終わるとなるほど、このシリーズがすごく売れた理由がわかるような気がする。

このサイトのモデルとなったウルトラセブンの「超兵器R1号」。
地球防衛のために超兵器開発競争に明け暮れる防衛軍を見て、嘆き悲しんだモロボシ・ダンが放った名セリフ
「それは・・・血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ。。。」

そしてダンがうわごとでも言ったこの言葉をキリヤマ体長から聞いた、兵器開発の女性博士は
「参謀、人間という生物はそんなマラソンを続けなければならないほど愚かな生物なのでしょうか?」
「へんないきもの」の代表選手は人間だろうが、自滅しない賢さは持ちたいものだ。

辺境の人々

2009-12-03 22:51:10 | 書籍
今回の話は新しく読んだ(珍しく新刊で購入した)本の引用ばかりである。(重たかったら読み飛ばしてください)
その著書は「日本辺境論」と言う、私にとっては今年読んだ本でベスト3に入る傑作だと思う。
ズームインでバード羽鳥が街頭の外国人に「日本」の流行のことを尋ねたり、半分バラエティのような時事対談番組でゲストコメンテーターに必ず著名な外国人を入れてみたり、「ここがヘンだよ日本人」なんてのはそのまんま。

誰もが言われると気が付くが、日本人ほど「世界から見た日本」とか「日本文化論」など自国の評価・立ち位置を気にする国民は少ない。
テレビ番組でも巷の政治・経済論でも、ともすると私達も気が付かないうちに「日本人と言うのは・・・」「だから日本は・・・」という批評を二言目には発している。
ぼやーっとだが、誰と話をしても何となく、同じような路線になってしまうような気がする。

食べ物、音楽、ファッションなどの流行の元が欧米から発信されると誰も彼もが無批判に飛び付き、敗戦国とは言え自国の外交政策がイマイチ及び腰で一貫性がなく、経済・教育も迷走っぽくて「なんとなく世界に侮られている気がする」のは何故か。。。
この本の著者は私が最近の文化人では最も共感している人で、多種多様の歴史や当節の事象を例にしながら丁寧に諭してくれるようだ。
普通の人なら前々から「何となく感じていたこと」をものの見事に目に見えるもの(活字)にしてくれて、思わず膝を打つほど小気味よい。

「日本人はきょろきょろする」と突然始まる。著者の主張を要約すると次のようになると言う。(以下引用)

「日本人にも自尊心はあるけれど、その半面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族との違いであろうとおもう」(引用終わり)

「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める・・・」確かにそうだけれど、ちょっとがっかりさせ過ぎかなあ・・・なんて最初は思ったけれど。。。(さらに引用)

「『オレはきょろきょろなんかしていない。自分のスタイルを貫いている』と目を三角にして抗議する方がいるかも知れませんけど、あのですね、そういうふうに「日本人とは・・・」というふうに誰かが言うとすぐにピリピリ反応してしまう態度のことを『きょろきょろ』と言うのです。ほんとうに『自分のスタイルを貫いている』人はきょろきょろあたりを見回して『まわりはオレが【自分のスタイルを貫いている】ことをちゃんと見てくれてるかな』と自己点検するようなことはしません。そもそも、自分の生き方についての他人の意見になんか何の興味もないので、こんな本読んでないし。・・・」(引用終わり)

最初はかなり手厳しく書いてある。「他国との比較でしか自国を語れない」とか「ロジックはいつも被害者意識」とか。。。
太平洋戦争を引き起こした話(簡単に語れるほど私に知見がないが)、幕末の大政奉還や日露戦争の話、オバマ大統領の就任演説、さまざまな例をあげて「なるほどね」と思える、どちらかと言うと耳の痛い話が続き・・・
「日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。あたかもそのようなことを日本人はしてはならないとでも言うかのように・・・」

モノマネだけはうまいが自分ではクリエイトできない、なんてことは結構聞いてきた。前半は多少自虐的にそのことを改めて知らされた感じではある。
「辺境であるゆえの限界」としながらも、「こんな変った国の人間にしかできないことがあるとしたら、それは何かを考える」という、とことん辺境で行ったら、というテーマに移って行く。

この本の著者が実に「さすがだ」と感心したのは、ここから彼の著書で繰り返し主張されている「学び」についての持論に見事に展開されていくのである。
常に外部から来る「世界標準」にキャッチアップすべく「きょろきょろ」する辺境人である日本人は極めて効率的な「学び」のメカニズムを持っているという。
この例として「鞍馬天狗」や「張良」のエピソードがあげられている。この先を論じると本を全部語ってしまうので別の場を設けるとして簡単に言うと・・・

それを学ぶことによる有用性や期待できる報酬を考えず、
「学べる限り、あらゆる機会に、あらゆるものから学べ」
「人間のあり方と世界の成り立ちについて教えるすべての情報に対してつねにオープンマインドであれ」
私にとっての今年の流行語大賞の一つは「学びの発動」である。

ところで前半は何となく感じていた辺境人である日本人の特性をいやというほど明確に論じられたが、歴史上「そうではなかった」数少ない例としてあげられた2つの話がどれも私の大好きな著書からの引用だったのに、しばし震える感動を味わった。
「幕末から後で、自分の言葉であるべき社会像を語り、それを現実に繋げ得たのは坂本竜馬の『船中八策』くらいでしょう」というくだりも、青年の私を幕末劇に引き込んだ本が「竜馬がゆく」だっただけに目を見張った。

●戦艦大和ノ最期(吉田満)
大和の沖縄出撃に動員された青年士官たちが、自分たちが戦略的に無意味な死に向かっていることに苦しみ、こうやって死ぬことに対していったい何の意味があるのかについて論争したときのシーン
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」

●坂の上の雲(司馬遼太郎)
「小さな。
といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
その対決に辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の知恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力の限りをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。」

今回は引用ばかりになてしまった。(反省)
「学び」に関する面白いエピソードもあったので、少し調べていずれご紹介することにしよう。本日のレクチャー(どこが?)はここまで。

ネットワーク科学最前線

2009-11-13 06:43:08 | 書籍
今回の話題はすこぶるアカデミックだ。たぶん書いている当人もそのうちにわからなくなっちゃうほど難解なところがあるが、どこまで伝えられるか・・・トライしてみよう。
私は20数年前、理工系の学校で学んでいたが、今の仕事とは似ても似つかない学内でも特殊な分野だった。
簡単に言うと、物質を極端な状況において、そこで見られる挙動や結果を解き明かすようなものだ。

セラミックス研究分野ではあったが、おりしも液体窒素の沸点(-196℃)でも起こる高温超伝導が脚光を浴びている時代であった。
「極端な状況」というのは例えば非常に高い圧力下、温度下を言い、わかりやすい例は黒鉛からダイヤモンドを合成することなどがある。
黒鉛もダイヤモンドも元素は炭素(C)で、結び付き方が違うだけだから、相応の条件にしてやれば「相転移」という現象をおこし、全く異なるものに変化する。
写真は卒業後、研究員で残っていた先輩にお願いし、記念に作成した合成ダイヤモンドだ。

他にも色々なマニアックな研究を行っていたし、他の研究機関も特色あることをやっていたが、基本的には一言でいうと「ある対象物に着目し、それについてより深く解明する」ことに尽きる。
ノーベル賞に代表される「何とか賞」の対象とされている分野はだいたい上記と同様の学問だと思う。
ただ知人に教えてもらって読んだこの本は「ネットワーク科学」という聞いたことがあるようであまりない分野の話で、一般的に使われるネットワークという言葉よりは複雑な「しがらみ、相互影響の結果」というニュアンスが強い。
個々の構成物そのものよりもそれらが集合したときに全体として示す姿を探究するものと言ってもよい。

出典は「複雑な世界、単純な法則-ネットワーク科学の最前線-」 マーク・ブキャナン著 阪本芳久訳 東京 草思社

例えばこんな話が挙げられている。
いつの間にか言わなくなってしまったが、タモリの「いいとも!」では最初に「友達の友達・・・」と言っていた。
現在、地球上の全人口は60億を超えたと言われている。「顔を合わせれば名前を呼んで挨拶しあう」レベル以上を「友達」と定義した場合、60億人の全く関係のない二人がつながるまでいくつのの「友達の友達」リンクを経なければならないか?。。。

驚いたことに、約6人程度だと言うのである。「友達の友達」を6回繰り返すと私から世界中のどんな人にも「つて」でたどり着けるという。。。
数10年前、アメリカの心理学者がアメリカ国内の距離的その他疎遠と思われる州から、ランダムに人を選びだして手紙を送りつけ、ボストンに住む自分の知人(住所は教えない)にその手紙を転送してほしいと依頼する実験をしたという。
大半の手紙は無事に友人のもとに届き、手紙の投函回数は平均6回前後だったというのだ。アメリカだけでも何億人も人がいるのに、全く赤の他人にたどり着くまで6回くらいの投函で済んでしまうという。

「六次の隔たり」と言われたこの発見は、どうも地球上にしても同様になっているらしい。
「なぜ世間はこんなにも狭いのか」から取り上げて「『奇妙な縁』はそれほど奇妙ではない」と論じていくこの本は、生態系の食物連鎖の話から脳内信号伝達のしくみ、インターネットや感染症の広がるしくみなど色々な複雑な出来事に応用していこうとする。
どれも中々興味深く、個々の専門用語はほとんど使わずに、どちらかと言うと「数学の世界」のように論じてしまう。

当初は私も簡単に理解できるような気がしたものだ。誰でも「世間は狭い!」というのを体験したことがあるだろうし。
このサイトに訪れてくださる私を知る友人が100人いるとする。その友人たちは上記で言う「一次の隔たり」である。
そしてその友人たちはそれぞれが100人(それほど少なくないが)いると仮定すれば友達の友達が「二次の隔たり」になった時点で1万人だ。つまり5回繰り返すだけで100億人になる勘定になるのだ。

「そんなの当然じゃーん。」と思っていたら、さすがにそんな単純ではなかった。。。

上記は100人の私を知る「友人それぞれの友人が全く無関係の人」である前提に立っているからである。そんなことは普通ない。私を知る友人100人どうしにもダブっている知り合いは多いはずだ。
極端な話、100人しかいない世界でも、「知り合いの知り合い」リンクはダブったまま伸ばせるのだ。

この本ではこういう、友人どおしも知り合いとして繋がっている「濃い関係」をクラスターと呼んでいるようだ。簡単に言うとコミュニティだ。
しかし、一方でシアトルにあるボーイング社の北米事業所長のトムは私のコミュニティの中では私しか多分知らない。
どうも60億いる世間を狭くしているのは、この「弱ーい結び付きの関係」だそうなのだ。
1億2千万人いる日本では、さしずめ「年賀状を交わす程度のつきあい」というところか。。。

もう一つ印象的だったのが、ネットワーク科学というのは一見全く関係ない事象にも共通して通じる簡単な法則を導こうとしていること。

ミシシッピ川水系の多数の河川の数とそれぞれの流域面積の関係と、インターネットのサイト数とそれぞれが持つリンク数との関係がほぼ同じ「べき乗側」というのに従うというのである。
何となく感覚的にはわかることだ。大きな流域面積をもつ河川(ミシシッピ本流)や多数のネットサーファーが集まる「ハブ」サイトはごく一部だ。その関係が対数(1目盛が何倍という軸)の関係にあるということだ。
ミシシッピ川水系のように完全な自然の産物である結果と「人気のあるサイトにますます人が集まる」という人為的な作用があるインターネットハブサイトが同じような法則に従うというのがネットワーク科学の面白いところだ。

また、金持ちほどますます豊かになるというメカニズムも「特に明確な作用が働かない」ネットワーク論で説明がつきそうだという。
「金が金を呼ぶ」、「金持ちに金が集まる」法則はビジネスでは定説となっていて、「金持ち父さん貧乏父さん」でもまさしく取り上げられている。
勇気を持って借金しても投資する、日夜人が考えないアイディアを捻りだす、常に儲かるモデルが成り立つか考える、なーんてビジネス本では掃いて捨てるほど書かれている「成功への人為的セオリー」もネットワーク論は持ち出さない。

唯一共通点としてあるのは「投資しなければ格差は起こらない」ということだ。
ネットワークの中に無数に人がいて、個人間の売買と投資による損益を繰り返した結果、何が起こるかコンピューターでシミュレーションするとどんなにパラメーターを変動しても長期間経済活動を実行させると、最後はごく一部の人が富の大部分を所有することになるという。
投資の見返りがランダムに起こるという条件では、個人の才覚など関係なく「20%の人に80%の富が集まる」のはごく自然だというのだ。
こう言われると私のように、「金持ちでないのは自分のせいではないとホッとする」か、「それでは身も蓋もないと憤りビジネス活動に邁進する」か、は人それぞれだろな。

舞台公演にもなったという「この地球上のだれでも、たった6人分隔たっているだけ・・・」というのは不思議な話だ。
単なる知り合いが世間を感覚通り狭くしており、「奇妙な縁」はそれほど奇妙でないことも何となく分かった。
しかしこのサイトを訪れ、私が何気なく載せた風景に「行ったことがある!」と直感いただけたりするのは、やはり科学では説明がつかない「奇跡」があると思うのだ。
ネットワーク科学最前線と言えども、中にいる私と、その私とリンクのある人が「なぜその人でなければならないのか」は解き明かせないだろう。

皆さんこれからも仲良くしてくださいね。

ここ数日の湘南新宿ラインとかけて、研究室にあったマルチアンビル超高圧力発生装置ととく。そのココロは・・・「作ったダイヤはイマイチ乱れ
てます」。。。


ナツドクの成果

2009-09-24 22:06:34 | 書籍
例年より若干気温高めのシルバーウィークは終わってしまったが、今年は厳しい残暑もなくひと夏が過ぎ去った。
夏休みに息子と打ち立てた「ナツドク計画」も私はかなり順調に予定通り消化した。やることなくビーチにいた時間が長かっただけだが。
息子甘辛は想像以上のサッカー漬けで思わしくなかったようだが、最後は飛ばし読みまでしていた

正直言うと、私には「読書」という一見暇そうな時間持て余し系の趣味がなく、どうしてもやることがない通勤電車だけが読書用時間だった。
呼んだ本も後でどうこうするわけではないので、何が残ることもなく記憶すら消えて行ってしまい、ホントの時間つぶしと化してしまった。。。
それが、人に紹介されたり回し読みしたりして、他人と呼んだ本のことであれこれお話するのは実に楽しい、と気付いたのが数年前だ。

また、本を読むというのが意外に体力を使うことに気付いたのはごく最近だ。
活字だけの世界だと、登場人物の顔とかシチュエーション、シーンごとの周囲の情景などをいちいち頭の中で組み立てるのに、かなりの体力を要する、と言うよりは一気読みした後はヘトヘトだ。
もともとそういうことをせずに「流し読み」して内容だけ掴む読み方もあるようだが。やはり「味わう」には労力を使っても自分の頭の中で映像化しなければならないだろう。

私はこの「自らシチュエーションを描く」能力が乏しいらしく、恐ろしくいい加減だ。登場人物が多かったり、場面が多い文学モノだとそれが顕著に現れてしまう。。。
同じ本を読んだ他人とそれについて語るのが有効なのは、そういった自身に不足するクリエイティビィを補い、明らかに間違っている理解を訂正してくれるからだ。
息子甘辛も小学6年だから、読みやすい本なら感想談話もできるだろうと、この親子ナツドクの成果を楽しみにしていた。

先頭打者でいきなりバックスクリーンへのホームランとなったのが以前紹介した「西の魔女が死んだ」
毎回遊びにいらっしゃる小夏さんもお読みになったらしいが、やはりスーパーグルメ主婦は英国の習慣にも造詣が深く目のつけどころが違っていた。これまた新鮮な発見だった。
そして、たまに遊びにいらっしゃる高島屋さんのリコメンドでDVDを借りて見たときに新たな発見があった。

ナツドクの成果の一つだが、「読んだ本を映像化されたタイトルで見ると立体的な味わいになる」ということを発見したのだ。
「西の魔女が死んだ」ではおばあちゃんはサチ・パーカーという女優だったが、なーんとも言えない英国風の謎めいた魔女の雰囲気をかもしだしていた。
主人公の「まい」ちゃんも中学1年生だが、ごくごく普通っぽい傷つきやすい少女という感じがぴったりだった。

DVD化する際の制作責任者はどのような思いでどのようなところを打たれ、映像を見る人に何を伝えたくて配役を考えたのか?とかストーリーを変えたのか?なんてことを自分で原作を読んだ感想と照らし合わせると実に面白い。(福山雅治のガリレオ風に)
「西の魔女・・・」は読みやすかったこともあり、私や息子が頭の中に描いていたそれぞれのシーン、登場人物のイメージと映像がまさしくピッタリ。

「原作を読んでその映像化タイトルと比較する。これを我々は立体読という・・・」久々白衣のケーシー高峰風に。。。
さて「西の魔女が死んだ」を筆頭に下記に読破した本のうちナツドクの成果「立体読」できたのは半分以下だった。

●夜のピクニック(恩田陸)
全国の書店員が選ぶ第2回本屋大賞を受賞したという。以前、友人が貸してくれて読んだことがあるが、再び読みDVDを借りてきた。
生徒全員が一晩中歩き続ける「歩行祭」という年中行事を舞台に、主人公の女子高生がかつて一度も近づいたことがない、異母兄妹という秘密の間柄をもつ同級生の男子に「歩行祭で話しかける」という決意を持つ。
確かに単なる歩くだけ、そして大きなことは何も起こらない話だが、「もうこんな時間は味わえないよなあ」と感じるものだ。
DVDでは海の見える高台を歩くシーンやずらずら仲間同士で意味ない会話をしながらへばっていく様子がよーくわかる。
「みんなで夜歩く。ただそれだけなのに、どうしてこんなに特別なんだろう」
若手の俳優がたくさん出ていて、誰かはよくわからなかったが、主人公の多部未華子という女優はあの話では少し可愛らしすぎるかな。

●容疑者Xの献身(東野圭吾)
「本格ミステリ・ベスト10」にて1位を獲得したことに論争にもなったらしい。「ガリレオ」というテレビ番組を見たことがあるから、少し主人公には先入観はあった。
クズとしか言いようのない別れた夫につきまとわれ、娘とともに犯してしまった殺人を隣人の天才数学者が救いの手を差し伸べる。しかし福山扮する元同窓の天才物理学者が悩み抜きながらも事件の全貌を明らかにしてしまう。推理小説と言うのはあまり読んだ記憶がないが、「なるほど!こういうものなのか!」と初心者をうならせるようなすごい結末だった。
DVDはなかなか借りられず人気があったようだが、原作でも結構すごい描写だった殺される元夫の極悪性や福山雅治のかっこよさを浮き彫りにし過ぎかなあ。
息子甘辛曰く「ダンカンの工藤はあわねえよ。。。」
(「工藤」とは助けられる母親に好意を持つ、その母が元務めていたクラブの常連で金持ち)

●犯人に告ぐ(雫井脩介)
これまたミステリ小説としてはかなり有名なものらしい。息子は映画館で予告篇を見て興味を持ったらしい。(実はそんなのがナツドク候補に多い)
捜査ミスから誘拐された少年が殺されてしまった事件の詰め腹を切らされた捜査官が、新たに発生する児童連続殺人事件の特別捜査官として呼び戻される。「警察小説」というジャンルらしい。
ニュース番組を通じて犯人と直接コミュニケーションを呼び掛けるという「劇場型捜査」を編み出し、物語は進んでいく。
最初のほうは子供が殺されて発見されるシーンが多かったのであまり息子には読ませたくなかったが、あっと言う間に読み終わってしまった。
私も息子もDVDを見ていないが、不思議なことに「映画にするとしたら主役の刑事はトヨエツだよな」と話し合っていたらまさしく当たっていた!
20世紀少年を見て顔をよく知っていたとは言え、これほど見事にブチ当たるとは思わなかった。
こういうところも「立体読」のおもしろいところ。

私の好きなマンガ「天才柳沢教授」は読書が大好きで、書斎に貴重な古書を何万冊と所有している。
そこにそれらの価値を知る空き巣が入ったが、計算違いで花粉症で講義を休んだ教授と書斎で鉢合わせしてしまうシーンの後半。。。空き巣に本を簡単に差し上げてしまう教授のセリフ。

「―――私にとって本は何度読み返してもその時の気持ちによって受け止め方が違うものです。あなたの持ってらっしゃる『半七捕物帳』は初めて読んだのが小学校1年生の時、そして中学、大学、その後と・・・私の解釈は驚くほどに変化しました。そして今、この場で再読すれば、きっとまた私に新たな発見をもたらすでしょう。それは本にとっても私にとってもこの上ない幸せなことです。しかしもっと幸せなことは・・・次に手にした人間に対して新たな感銘を与えることでしょう。その時これらの本は本質的な意味で新たな『生』を生き始めるのです。本は生きているのです。大事にしてあげてください―――」

私はこの場面が特に好きだ。残念ながら子供時代から再読し続けてきた名作があるわけではないので、やはり本について他人と語る他はナツドクで経験した立体読がかなりいいセンいってる趣味になるのではなかろうか?

西の魔女が死んだ

2009-07-31 22:04:02 | 書籍
夏休みに息子甘辛が50冊の読書に挑戦することになったのは前回の話。
それぞれの本のタイトルと書店スタッフの感想を簡単にまとめて紹介しているうちに、なんだか自分もその気になってきて、それらの本全部自分でも読んでみることにした。
息子がどんな本を好むかも興味があったし、それに対しどんな感想を持つかも話し合ったら楽しいと考えたのだ。

まず一発目は「西の魔女が死んだ」(梨木香歩・新潮文庫)。
「ホーントに気にいって何度も読み返したいと思う本があったら買ってやる」と言ってあったが、早速「これすげえいい!買ってくれ」ときたもんだ。
あっと言う間に読み終えたようだが、ホントに読んだのか?あらすじと感想をテキストにしておく約束になっている。。。

何ともとらえにくいタイトルだが、「西の魔女」とは主人公である女子中学生「まい」の母方のおばあちゃんなのだ。

中学に進んでまもなく、友達グループにうまく入れず学校へ行けなくなった「まい」は春から初夏へかけて田舎生活丸出しのおばあちゃんの家で二人で過ごすことになる。
ママのママは英国人だが日本人のおじいちゃんと結婚し、連れあいを亡くした今、日本に一人で暮らしている。
「まい」は小さいときからそのおばあちゃんが大好きで、何かにつけて両親には照れくさくて言えないことも連発する。
「おばあちゃん大好き!」と。
そんなとき英国人のおばあちゃんはいつも微笑んで「アイ・ノウ」と応えるのだ。

日常どこにでもあるような話で、すぐに場景が浮かんでくるし読みやすい本だ。

おばあちゃんの昔の話を聞くうちに「まい」は英国にはこちらで想像するのとは少し違う「魔女」がホントにいることを知る。
黒いコートに帽子と箒というお約束スタイルではなく、普通の人間の姿でそこにはいない人に声が聞こえたり、そこにないものを見ることができたり、未来のことを少しだけ予見することができるという。
それは大昔の人間が生きていくためにすぐれた特殊能力を親から子へ伝承してきたようなものらしい。

おばあちゃんは、生まれつきそういう能力がある人とない人がいるが、修行によっては誰でもある程度は身に付けることができるという。
主人公「まい」はおばあちゃんの手ほどきで魔女の能力をつける修行を始めることにするのだ。
その肝心要のポイントは「何でも自分で決める」ということ。

おばあちゃんが自分の死を匂わすようなことを言い、「2年後にそれを知ることになる」という下りは切なかった。おばあちゃんは日本語ペラペラだが英国人なので、丁寧語でしゃべるところが新鮮。

「まい」は誰でも一度は考え恐れることをおばあちゃんに尋ねる。「人は死んだらどうなるの」
「わかりません。実を言うと死んだことがないので」おばあちゃんは笑いながら
「でも自分の死はまだですけれど、おじいちゃんの死は体験しましたし、魔女トレーニングは受けましたから、ある程度の知識はあります。それにこの歳になりますと、死後のことを射程に入れて生きるようになりますから」おばあちゃんは片目をつむる。。。。

おばあちゃんが考えている「死ぬ」とは、ずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだ、という。
無力にも物体として転がっていた鶏を思い、「まい」は身体をもつことがあまりいいことがないように感じる。でもおばあちゃんは。。。。
「それに、身体があると楽しいこともいっぱいありますよ。まいはこのラベンダーと陽の光の匂いのするシーツにくるまったとき、幸せだとは思いませんか?寒い冬のさなかの日だまりでひなたぼっこをしたり、暑い夏に木陰で涼しい風を感じるときに幸せだと思いませんか?鉄棒で初めて逆上がりができたとき、自分の身体が思うように動かせた喜びを感じませんでしたか?」

私はこのやりとりがどうにも好きだ。

「まい」が「死んで魂が身体を離れるとき」のような気持ちがする夢をみたとき。。。

「おばあちゃんが死んだら、まいに知らせてあげますよ」とおばあちゃんは軽く請け負った。
「ええ?本当」と一瞬「まい」は喜ぶが、「あの、でも、急がなくても、わたしはただ・・・」おばあちゃんは大笑いして、
「分かっていますよ。それに、まいを怖がらせない方法を選んで、本当に魂が身体から離れましたよ、って証拠を見せるだけにしましょうね」
「まい」は深々と頭を下げてお願いするが
「でも、わたし、おばあちゃんだったら幽霊でもいいな。夜中にトイレに行くとき以外だったら」
「考えときましょう」おばあちゃんはにやりと魔女笑いをした。

お盆とかを前にして、あの世から化けてでてくるとか、寂しいから連れにくるとかそういうことではなく、こんな感じがいいんじゃないかと思う。

しばらくして「まい」は父親の仕事と合わせて転校することにし、あばあちゃんと別れることになる。ささいなことで人に憎悪を剥き出しにしてしまい、叩かれた後ずっと気まずい思いをしながら新しい家を向かう。
そして2年後そのおばあちゃんが死んだという連絡が入るのだ。「西の魔女が死んだ」のだ。

「まい」はヒメワスレナグサと呼んで密かに水やりを習慣にしていた場所で、なにげなく汚れたガラスに目をやって電流に打たれたように座り込んでしまう。
その汚れたガラスには、さっきはなかったはずなのだが、小さな子がよくやるように指か何かでなぞった跡があったのだ。

ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ
オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ

「まい」はおばあちゃんがあの約束を覚えてくれたことに気づく。そして堪えきれずに叫ぶのだ。

「おばあちゃん、大好き」

そして今こそ心の底から聞きたいと願うその声が初めて聞こえる。

「アイ・ノウ」

うーむ。やられた。。。
息子はどこで知ったのだろう。先頭打者ホームランという感じだ。この本は我が家の永久保存版になることは間違いない。
結構ドラマ化、映画化された作品が多いようだ。いずれにしてもこれから読む本が楽しみだな。

この前懐かしい仕事のパートナーと食事会してもらったときに、ご一緒した超優良IT会社の元社長秘書(初登場)のご推薦があったのは驚きの偶然だ


ナツドク(夏休みの読書)の楽しみ

2009-07-30 07:00:51 | 書籍
1学期、息子甘辛は通信簿の国語で「考えや気持ちを文章に表す」という欄に×がついてしまった。
その対策としてよく●●文庫が昔やったように、夏休みの読書100選みたいなものを考えた。
有隣堂藤沢店スタッフお薦め文庫という冊子を無料でもらい、「夏休みに50冊読破したらTVゲームソフトを買ってやるか検討してやる」(なんて勿体ぶった言い方だ!)という約束をした。

「よーし!ホントだな」

息子は私がもらってきたお薦め文庫で読みたいと思うタイトルに○をつけはじめた。
全部買ってると大出費になるので、まずは図書館に10冊ずつ予約してやることにした。
甘辛はやる気マンマンだが、哀れかな自分がこの夏休み親よりも忙しいことに気付いていない。この10冊読むだけでいっぱいいっぱいだろな。

どれどれ6年生にもなるとどんな本を読もうとするんだろ。○印を見てみた。各著にはスタッフの紹介コメントが載っている。

「西の魔女が死んだ」
(なんとなく「夏」を感じられる読後感さわやかな一冊です。)
― ふーん。おもしろいタイトルだな。魔女が死ぬとさわやかなのか?。。。

「チーム・バチスタの栄光」
(ぐいぐいと引き込まれるように読みました。手術の光景も目に浮かぶようなリアルさがあります)
― タイトルはなかなか引き込まれるな。ゴッドハンド輝の「ヴァルハラ」みたいなものか?

「日本語擬態語辞典」
(最近認知度が上がった?オノマトペ(擬態語)!!「ハラハラ、ドキドキ、ニヤニヤ・・・」辞典とはいえ、そこは文庫!お手軽です。半分は五味太郎さんのおもしろいイラスト、解説も和文・英文とあり、ちょっと得した気分になれます)
― ぎゃーはっは。アイツもともと話の半分近くが効果音なのに、擬態語ボキャ増やしてどうすんだ!?

「震度0」
(大震災の朝、県警幹部が失踪!県警のとっては大激震のはずがなぜ「0ゼロ?」終盤の予想を超える展開にその意味が・・・。細かな心理描写は女性の方にも読み易いです!
― うーむ。こっちはやけに重そうだぞ。大震災と言えば神戸のやつかな。。。

「三国志‐天狼の星」
(「仁君劉備」や「悪役曹操」にはもう飽きたという方におすすめ!キレやすい劉備やコンプレックスの塊の曹操がいます。超人より凡人より、だけど生き抜こうとする姿が皆カッコイイ!)
― なーるほどね。三国志は読み尽くしてたからな。虚弱な関羽とかあわてんぼうの孔明とか?

「片倉小十郎景綱」
(独眼竜正宗の右眼として生涯支え続け、秀吉に城を与えようと請われようとも。政宗の下から動かなかった男)
― 普通それを言うなら右腕だが。。。右眼と掛けたとすればなかなか知的な人だ。ウル銀行きか?

「犯人に告ぐ」
(連続児童殺害事件の捜査は行き詰まり、現役捜査官はTVニュース番組に出演し犯人逮捕への突破口を見出そうとする。こうして犯人とメディアを通じての戦いが始まった!そして思いもよらぬところから犯人逮捕への糸口が!!息もつかせぬ。ラストは圧巻!!)
― 息子も児童だからあんまりこういうのは読ませたくないものだ。。。でもスリルはありそうだ。

「上杉三郎景虎」
(「義」を重んじてきたはずの直江兼続が生涯に一度だけ犯した裏切り行為ゆえに、若くして自刃に追い込まれた武将
― 天地人最近見てないけど、むかーしから直江兼続好きだったからなあ。

「手紙」
(唯一の家族である兄のことが大好きだった弟、その弟のために殺人という罪を犯してしまった兄。彼らを通して人と人とのつながりについてこんなにも深く考えさせられたのは、この小説が初めてでした。読んで思い切り泣いてください)
― これは書店の店頭に長いこと陳列されてたからタイトルを知ってるぞ。アンジェラ・サキとは関係ないらしい

「容疑者Xの献身」
(「極限の愛」とは何か?推理小説でありながら、これほどまでに「愛」を追及した傑作があっただろうか?東野圭吾のガリレオシリーズ懇親の代表作!!
― これもテレビで映画の宣伝をしていたぞ。「手紙」と同じ作者なんだな。東野・・・って今田とコンビだったお笑い芸人と勘違いしてた。。。

「告白」
(自分の思いを他者にうまく伝えられますか?現実と理想のギャップ、他者の中にいる自分と自分の中にいる自分のギャップに苦しむ人におススメです。決して主人公のようになってはダメです)
― なかなか重い感想だな。このタイトルって色々な人が書いてるから間違わないようにしなきゃな。

「夜のピクニック」
(「歩行祭」という、1日かけてひたすら歩く高校のイベント。ドキドキハラハラもしないけど、忘れかけていた純な気持ちを思い出させてくれる、どこか切ない青春小説です)
― タイトルからはヤバいことと勘違いしそうだが、知人に借りてこの中では唯一読んだことがある。まさしく上のコメントそのものだったな。

書いているうちに、私も同じものを読んでみようと考えた。夏休みの読書に息子と同じ本を読んで、その感想を話し合うなんて結構イカすじゃないか。
ブレイブストーリーから小学生でも高学年になると全く侮れない本を読むもんだと痛感した。
私の読書時間は通勤の時だから、別にジャンルは問わないのだ。同じ本を読んだ者どおし、その内容について盛り上がるほど楽しいことはない。
ナツドクは新たな楽しみになりそうだ。

ブレイブ・ストーリー

2009-06-07 07:10:58 | 書籍
イマドキの子供がはまるゲームなんてのは。。。
ひょんなことから、ごく普通の少年が世界を救うために旅を始める・・・
途中で出会った連れが掛けがえの無い仲間となり、色んな戦いを通じてさまざまなアイテムを手に入れて成長していく、水戸黄門ばりのワンパターンだ。

40過ぎのおっさんが旅をすることは決してない。
旅先の街で「ししゃもラーメン」を食いそびれることもないし、がっくり肩を落とすプリンをお土産に買うこともない。。。
だいたい必ず言葉をしゃべる「剣」と出会うんだ。「陣笠」や「がいこつのキーホルダー」では決してない・・・
まあ、そんなゲームの世界だと思っていた。ところがどうもそうじゃないらしい。

「父ちゃんよ、これって結構すげえ話なんだぜ」

別に・・・いいよ。オレ、魔導師とかあんまり興味ねえし・・・
でも見てみると、漫画ではなくちゃんとした書物だ。「宮部みゆき」という結構有名な人の作品らしい。
私は「行動派」というほど何をするわけでないが、「本」ってあんまり読まなかった。

私には色々な本を紹介してくれる知人がいて、ずいぶん幅が広がり、結果趣味欄に「読書」と自信を持って書けるようになった。
この「ブレイブ・ストーリー」は聞くとオリジナルは文庫本で、映画化されたやつを数年前え息子甘辛が以前のサッカーチームメイトと見に行って号泣してきたそうだ。
小学校高学年になって文庫本も読めるようになって、繰り返し読んでいたらしい。。。

主人公は11歳の少年。。。一人っ子で普通の家庭にいるのだが、父親が突然「別の女性と生きる」と言って、家を出て行ってしまう。。。
相手の女性が家に来て母親と言い争う・・・父親側の母親(老婆)は息子の肩を持つ。
主人公の母親は傷つき絶望して、主人公の息子もろともガスによる無理心中を図る。

一方、いずれ彼のライバルとなる転校生の少年は、母親が浮気相手と家にいるところを父に乗りこまれ、幼い妹もろとも殺されてしまい、その父親もまた少年を待ち伏せしながらも、逃亡し結局自殺する、と言うまるで「京都地検の女」のような経験をもつ。

主人公は初めての衝撃に戸惑い、傷つきながら自分だけに課せられた(と思いこんだ)「運命を変える」ため、ライバルの少年が見つけた幻界へ行く扉を見つけ、「運命の塔」にいる女神を目指す。
女神にお願いして自分のつらい運命を変えてもらうためだ。
途中で出会った不思議な仲間との出会い、楽しいことやこれ以上ないと思っていた自分の経験をはるかに超える悲しみも経験する。
そして運命の塔で一足先にたどりついたライバルの少年と再開するが、その少年は恐るべき魔導士に成長していた。

そこで二人は最後の対決?!と思いきや、対決するのは自分自身だった。。。
ライバルの少年はそのあまりにつらい経験により「運命を変える」ことだけに執着し、その思いの強さゆえ強大化した魔法で幻界を破壊してしまう。
そして最後の「試練」自分自身の「暗黒」に負けてしまうのだ。

主人公は「旅人」としてこれまで散々な目に合わされたライバルを許し、「運命を変えるのではなく、自分が変わらなければならない」ということに気づく。
最後に「ひとつしか聞き入れられない」という女神さまへのお願いは自分の運命を変えるのではなく、破壊された幻界をもとに戻し、仲間たちの世界を守ることにするのだ。

「変えることができるのは僕だけだ。僕が、僕の運命を変え、切り拓いていかなくては、いつまでたっても同じ場所にいて、同じことを繰り返すだけで、命を終えてしまうことになる・・・」

天空を翔るファイアドラゴンの背に乗り、数々の試練を経てたどり着いた「運命の塔」でのラストシーンは効いた。。。
飲んでもいないのに電車を乗り過ごすほど感動した。
前半の「京都地検の女」編はイマイチ子供に見せたくない話もあったものの、漫画だけだと思っていたが結構いい物語読んでるんだな。

「父ちゃん、オレの唯一大好きな本3つ知ってるか?」

うーむ。「唯一」なのに3つか。。。やばくねえか?

「ブレイブ・ストーリー、キングダム・ハーツ、もう一つは?」

キングダム・ハーツはプレステ2にもなっていてドナルドとか出てくるやつだった。

「花の慶次だろ?」

「全然違う!」

「はじめの一歩?ダイの大冒険?意表をついて風のマリオ?」

「マンガじゃねえよ!」

ふーむ。我が家にはマンガとはいえ、侮れない名作をたくさん温存してあるんだがな。
わかった、三国志かそれとも西遊記、封神演義もよく読んでたな。

「うーん。あれもグーっなんだけど違う。。。」

そしてすべての候補を言い尽して降参したとき息子甘辛の口から出てきたのは。。。

「佐賀のがばいばあちゃん」

銀のアンカー

2009-04-18 07:05:22 | 書籍
「磯辺よ。。。最近の学生はすげえぞ。気合いれて話せよ・・・」

今年から採用活動に携わっている私に、技術系人事の責任者である大部長が言った。
最初は何のことかわからなかったが、面接官として何十人も相手にしてきて愕然とするような学生がいるそうだ。

「この間なんかさ、『最後に何か聞いておきたいことはありますか?』って聞いたら、『御社の社員食堂はおいしいですか?』ときたぜ。」大部長は語る。

「ぷぁっはっは。それで何と答えたんすか?」

「場所によります。。。さ。」

うーむ。。怒るか笑うかしたのかと思ったら、真面目に答えたらしい。彼に詳しい答えを聞くと、
「まず、社食のあるビルとないビルがある。社食の近くに色々食事するところがあるロケーションは比較的美味しい。まわりに社食以外何もないところは皆が行くしかないのであまり美味しくない」

これまたうーむ。志望学生相手に「競争原理」を説くか。。我が社の幹部もたいしたもんだな。
人手不足で私もたぶん出番があるので、よく聞いておこう。

最近、感心したマンガに「銀のアンカー」というのがある。「週刊スーパージャンプ」掲載の珍しい「就活マンガ」だ。
N.Y.の「草刈り機」と言われた超有名なヘッドハンターが就活で悩むそこらの普通の学生に出会い、指南していくものだ。
まず、タイトルのつけかたに目がキラーんとした。

「就職を例えれば、船の錨を港に下ろすようなもの・・・・・」

人生に明確な目標を持った人。小さい頃から将来の職業をはっきりと決め、そこに向かって努力をし成し遂げることに何の迷いもなく突き進んでいる人。
こういう人が下ろした錨はまさに黄金。。。「金のアンカー」

しかし学生になるまで明確な目標がない。将来の目標が見つからなかった人。自分が何をしたいのかわからない人・・・でも社会人になるとき自分で努力をして納得のいく職業に就くことができた人。
こういう人が下ろした錨は銀。。。「銀のアンカー」

小学生の子供には何となく似たようなことを言ってきた気がする。

「とにかく『やりたいこと』『なりたいもの』を早く決めて、迷わず進む者が大抵勝ぁつ!」

この物語の中で女子アナを目指す人が出てくる。
倍率何千倍という未知の世界にも「受けたいと思ったら挑戦してみろ」という「草刈り機」の励ましにトライしていく。
書類選考を何とかパスし、一次面接に臨んだが面接官としていた「すご腕プロデューサー」に

「キミ、今火災現場から中継してんだよ。ところが音声が繋がんない・・・でも何とかしなきゃならない。さぁどうする?」

と聞かれ・・・
撃沈かと思いきや実は一次選考はそのプロデューサによってパスするのだ。
後々に廊下ですれ違ったときに、

「・・・ただこいつだけは教えてやる。俺達がお前らの求めてんのは『可能性』だ。何年かしたらこいつは伸びるって思わせる将来性だ。欲しいのは今の時点での原稿読みの技術じゃねぇ」

うーむ、かっこいい。このマンガ、使えるな。。。このフレーズ、ちょっとメモしといて、いただくとしよう。
就職本は山ほどあっても、就職してもらう側の本は無いもんな。
銀のアンカーのワンシーンで「やってみたい仕事は?」と学生に聞いたアンケート結果は

マーケティング・企画 26%
開発・技術      16%
人事・総務課     14%
財務・経理       6%
コンサルティング    9%

その答えをどう思うか、新橋で仕事帰りのお父さん達に聞くと。。。

「マーケティング・企画26%?新入社員の若造にそんなもんさせるワケねぇだろ」
「開発・技術16%だって?アホか・・・勉強もロクにしてねぇクセに何が開発だ!」
「人事・総務?コンサルティング?ふざけんな!ガキの経営アドバイスなんて誰が聞くか!」

「いいかガキども!新入社員なんてのはな。まず現場の最前線出て汗まみれになってこい!」

まあ、仕事帰りに新橋にいたお父さんだから・・・ネクタイも頭に巻いてたし。。。