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ぽかぽか春庭「武井武雄展 in 目黒美術館」

2024-08-18 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240818
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(2)武井武雄展 in 目黒美術館

 政治家や政治家を目指す人が失言をしてしまうのは、今も昔も大衆にとっては「楽しみごと」の一つです。その失言をたたくのは、発言の機会がない、または少ない一般大衆にとって、失言した者を自分のレベル以下に貶めるよい材料になるからです。
 品性低い私なんぞ、政治家の失言を知ると手をたたいて大喜び。最近話題になった発言のひとつに「女子供」という発言で上げ足をとられた都知事候補者がいました。彼は「前後の文脈を無視して一部を切り取って批判することこそ問題」と反論しました。コンプラ(コンプライアンス)やらポリコレ(ポリティカルコレクトネス)全盛の昨今、久しぶりに「おんな子ども」という言葉がマスコミに氾濫しましたから、面白かった。75婆といえども「おんな」ですからね。おんな子どもという発言にはいろいろと。

 私は、武井武雄(1894-1983)を知りませんでした。
 先日観覧した竹久夢二。私の子供のころ、竹久は田舎の子供でも知っている有名画家でしたが、「所詮女子供の喜びそうな通俗画家」として扱われてきました。再評価がおこなわれるようになったのは、そう昔のことではありません。中原淳一も竹久夢二も「私の好きな画家ランキング」に入っていませんでした。武井武雄については、そもそもその名を知らなかった。

 武井武雄は、「しょせん子供相手の絵」という世評に対し、一生をかけて追及すべき分野と思い定めて、童画というジャンルを起こし、版画表現の可能性を追求しました。でも、子供のわたしが武井が挿絵を描いた絵本を見たとしても、文章の作者のほうに目を向けても、挿絵の画家の名は、一瞥後は忘れてしまっていたのだと思います。
 5歳のとき堀文子が挿絵を描いた「青い鳥」が大好きになったのに、堀文子の画業全体を知るのは「青い鳥」から50年もたってからのことでした。

「星曜日」1965


目黒美術館の口上
 大正から昭和期にかけ、子どもたちに本物の芸術に触れてもらうことを目的に「童画」という呼称を広めた武井武雄は、2024年に生誕130年を迎えます。童画の他にも、本の芸術作品「刊本作品」とその原画、版画作品などを中心に、多岐にわたる創作の広がりを紹介します。また、当館所蔵作家の秋岡芳夫の童画関連作品も併せて展示します。

 大正期、子どものための文化が目覚ましく開花しました。1918(大正7)年には児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、「童謡」が誕生します。
伝承された昔話や民話だけでなく、これらを基に新たに創作された物語、さらに全く新しい創作童話も発表されました。しかし、当時出版された挿絵は、物語の添え物としかみなされませんでした。このような状況下で、子どものための芸術こそ本物の芸術でなければならない、そのために「童画」という言葉を発案し、これを一つのジャンルとして確立することを目指し、活動した人物がいました。その人こそ武井武雄(たけいたけお 1894-1983)です。今年、生誕130年を迎える武井の豊富な創作活動をふりかえる展覧会を開催します。

 武井は「童画家」として活躍する一方、版画家、デザイナー、教育家としても大いに活躍しました。さらに、郷土玩具収集にも没頭し、『郷土玩具東の部西の部』(1930年)の出版により初めて郷土玩具を体系的に紹介するという研究者としての一面もありました。
 本展では、豊かな幻想世界を通じて子どもたちに夢を与える[童画]、銅版画や木版画など多様な技法で制作された[版画]、装丁・函(はこ)・本文・絵で構成される総合芸術で「本の宝石」とも称される[刊本作品]を軸に、原画類やデザインの仕事など、多岐にわたる武井の幻想にあふれる世界を紹介します。巡回展である本展において目黒会場のみの展示として、武井と日本童画会で志を共にした目黒ゆかりの作家、秋岡芳夫の童画作品もあわせて展示します。

 武井武雄略年譜
1919年 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科卒業。
1922年 絵雑誌『コドモノクニ』創刊。
1923年 処女童話集『お伽の卵』出版。
1925年 初の個展「武井武雄童画展」開催。この時期に童画という言葉を創造。
1927年 日本童画家協会を岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と結成。
1929年 自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催。
1944年 恩地孝四郎の推薦により日本版画協会会員となる。
1946年 日本童画会結成。委員となる。文化団体「双燈社」を起こす。
1959年 紫綬褒章受章。
1967年 勲四等旭日小綬章受章。
1998年 長野県岡谷市にイルフ童画館開館。
 
 展示の作品は、ほとんどが岡谷市のイルフ童画館の所蔵です。イルフって北欧神話などでいうエルフをどこかの言葉で言ったものかと思いましたが、ぜんぜん違った。フルイの逆ヨミでイルフ。古いの反対の新しいという意味合いの、武井の造語です。

プロローグ 1階の第一室には、武井武雄の初期の作品から展示されていました。イルフ童画館所蔵の版画その他の絵画は撮影禁止ですが、出版物展示は撮影OKです。
 自画像など1910年に描いた油絵。16歳ころの風景画や桃の絵、上手ですが、この先どういう画家になるのか見当がつかない、よくある洋画でした。

 美術学校卒業後、1922年にコドモノクニの創刊表紙を描いて以後、子供のための絵を一生の仕事にすると決意を固め、 1925年、30歳を過ぎたころには「童画」を掲げて個展を開くまでになりました。

第1章 童画
 武井武雄「コドモノクニ」創刊号表紙1922 ほか
   

「アンデルセン童話集」


「ジャックと豆の木」1966

 ラムラム王 1926

近くの世界
 

第2章 版画
 武井は、版画について研究を重ねました。伝統的な紙や木版のほか、セロファン紙に螺鈿をほどこしたものなど、新しい表現に挑戦しました。

「鬼」1952            牡丹妖記 版木
 


 『人魚と嫦娥』螺鈿細工、紙・樹脂・漆 1965~66年 


「ナイルの墓」パピルス版画
 

第3章 刊本作品 雑誌
 近くの世界
 

 

 
 RRRという署名を使っていた。


第4章 デザイン

武井デザインのかるた「赤ノッポ青ノッポ」


第5章 木にとまりたかった木のはなし


 黒柳徹子さんが、童話の原作を仕上げ、知り合いを通じて武井武雄さんに挿絵を頼みました。武井さんは快諾したのですが、その2か月後に急逝。しかし、娘さんが武井の絵を精査し、「木にとまりたかった木のはなし」のお話に合う絵を選び出しました。「トットちゃん」の挿絵もいわさきちひろの既存の絵から選んで合わせたということなので、2度目の方法。

 お話の内容。鳥たちがとまりたがる枝を持った木が「わたしも木にとまってみたい」と願いました。鳥たちは木を大地から抜き、木にとまらせてやりました。木は船に乗ることになり、大海原へ。ペンギンのいるところも訪問し、最後は大きな山のあるところへ帰ってくる、というお話です。お話の流れにちょうど合う絵が並べられ、お話にぴったりで
した。

 鳥たちが止まりたがる木   木の上に花を散らす鳥たち(空飛ぶ花屋)
  

最終ページ 「このお話を考えた女の人の絵です」
 黒柳さんに出会う前に描かれたのに、黒柳徹子の雰囲気が出ているのでびっくり。


 初めて見た武井武雄の絵。子供だけでなく、大人の心も打つ絵を描きたいと願っていたという武井。はい、初めて見た75歳も心うたれました。



<つづく>
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