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ぽかぽか春庭「山本夏彦の『文語文』礼賛論」

2024-05-14 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240414

ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>明治の日本語(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論

 春庭の日本語について書いたコラムを採録しています。今回の自分コピーは、年前の文章なので、いささか古いですが、文体はほとんど変わっていません。 

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2012/07/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論

 7月7日は七夕です。1872(明治5)年、旧暦12月3日を、新暦の1873(明治6)年1月1日として以来、7月7日は、梅雨時真っ最中。織り姫は彦星に会うことができません。
 しかし、JRの駅や留学生センターに飾られている竹飾り笹飾りに、短冊に書かれた願い事がびっしり結びつけられているのを見ると、「願いを託したい」「祈りたい」という気持ちは、こうもたくさん文字となって表現されているのだと、改めて感じます。

 私の一番の願いは、むろん我が身の健康、家族の幸福ですが、今年は、同じくらい強く「原発完全停止」を願わずにはいられません。「経済が上向きにならなければ、日本はどうしようもないでしょう。あなたは節電できますか、電気をつかわずに生活できますか」という脅しはさんざん聞かされましたが、さまざまな科学的実証からみて、原発を使わなくても生活でき、経済も向上する方法が、シロートの私にも分かってきました。
 夜、見えない星に向かって、祈りましょう。

 七夕は、「技芸上達、書道の上達、文章の上達」を願う日でもあります。春庭も文章上達を願って、ことばの勉強を続けます。
 「明治の語彙シリーズ」シェークスピアから翻訳された「じゃじゃ馬馴らし」について、「常の夜にも似ぬ7月6日」に書きました。(ちなみに、ゆうべの夕食はサラダではなく、麻婆豆腐でした)。

さて、次は、「山本夏彦に学ぶ明治の語彙」です。

 インテリア雑誌『室内』の編集長にして「歯に衣着せぬ」随筆を数多く残した山本夏彦(1915-2002)。大正に生まれ平成を10年生きてなくなった。
 生まれは大正であるけれど、その文学的な素養は明治の語彙によって培われました。夏彦の父は、明治前半の文学者、山本露葉。夏彦が中学生のとき、父死去。父親の死後、中学生夏彦は、父・山本露葉の残したノートや蔵書を熟読する中で、明治の文学を吸収しました。
 大正生まれではあっても、その語彙、文体感覚は明治前半の主要な書き言葉であった文語文を基礎としています。山本自身は現代書き言葉(近代口語文)で文章をつづりましたが、日本語表現としては、「文語文」を支持しました。

 『完本文語文』2003は、冒頭「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」からはじまり、全編、日本語と日本語言語文化への思いを書き込んでいます。最終章は「明治の語彙」。
 最初の章に「応接にいとまがない」の「応接」、「不肖の弟子」の「不肖」を、自社の社員に「わかるか」と聞いたら、彼らは「初耳だ」と答えた、というエピソードが書かれています。いつごろの話とも書いていないのですが、「文語文」の初出は93年文藝春秋なので、このエピソードの社員は、70年代の生まれくらいかと思われます。

 70年代生まれには、「応接にいとまもない」も「不肖の弟子」も、「知らないことば」になっているのか、と、70年代には「花の20代」になっていた私としては驚きもするけれど、まあ、さもありなん。しかし、私とて大正生まれの山本翁に比べれば、ずいぶんと語彙に乏しいことだろうと「完本文語文」の中に、私の使わない語彙がどれほど出てくるか、チェックしてみました。意味はわかるが、私は使ったことがない語、意味も読み方も知らなかった語、両方をメモしておきます。

文春文庫
 

 意味はわかるけれど、自分では使わない語彙、言語学の用語でいうと、「理解語彙ではあっても使用語彙ではない語」です。
 読み方も意味もわからない「非理解語彙」については、意味を書いておきます。書いておかないと、そのとき「へぇ、そういう読み方なのか」「そういう意味なのか」と思っても、すぐに忘れるから。いや、書いておいても忘れることが多いのだけれど。

 以下、山本翁没後1年の2003年に出た文庫本『完本文語文』の中のページを示します。なんだ、日本語教師のくせに、こんな語も知らんのか、と思われるかもしれませんが、「知らぬは一時の恥」ですから、恥ずかしげもなく、「私は、こんな語、知らんかったシリーズ」開陳です。

<意味を知らなかった語彙>
p33「人みな七竅あり」七竅(しちきょう=七つの穴)と、読み方も意味も書いてあったから理解できたけれど、知らない語でした。

p53「朝菌は晦朔を知らず」漢文は高校でならった世代ですが、漢文教師がいやでいやで、できる限りさぼったので、「荘子」にもうとい。
 朝生えて晩には枯れるきのこ「朝菌」は、「晦朔」を知らない。「晦朔」とは、晦日(みそか)と朔日(ついたち)のこと。朝菌は晦日(みそか・つごもり)も朔日(ついたち)も知らない。すなわち、限られた境遇にある者は、広大な世界を理解できないことのたとえ。また、寿命の短いこと、はかないことのたとえ。

p114「阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽确(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日」
 中島敦『李陵』の冒頭部分です。
 山本夏彦が「騎都尉とは何か、磽确とは何か知らなくても文はリズムがあれば分かるのである」と書いているように、改めて読みなおすと、知らない語がごろごろと磽确のごとく広がっている。
 「こうかく」という読み方なんぞは知らなかったが、「磽确たる丘陵地帯」という字面を見れば、丘にひろがった尖った石や岩が目に浮かぶ。これは、漢字の見た目で意味を想起できる力による。
 意味を知らなくても、高校生の私もまた李陵の文体に恍惚となった一人です。それなのに、漢文を学ぶ気にはさっぱりならなかった。だから、今でも漢語に弱い。

p222「報条」=広告文のこと。江戸時代から明治初期にかけて用いられた言葉。「引き札」は時代劇などでもときどき聞いていた語でしたが、「報条」は、知りませんでした。

p226ラテエrate(eにアクサン) 落伍した芸術家のこと。
 森鴎外が翻訳した『埋木うもれぎ』の末尾に出てくる「モンマルトルのラテエとて痴(おろか)なる翁」という中のラテエを、「埋木」を父の遺品の本として読みふけった山本夏彦も知らず、後年、ようやく意味がわかった、と書いています。私も当然、この「文語文」を読むまで、ラテエなる外来語を見聞きしたことはなかった。

 『埋木うもれぎ』は、ボヘミア系ドイツ人、ユダヤ系女流作家オシップ・シュービンOssip Shubin(本名アロイジア・キルシュナーAloisia Kirschner )が書いた『Die Geschichte eines Genies(ある天才の物語)』を、鴎外が訳したもの。
 著者オシップ・シューピンは、「忘れられてしまった作家」のひとりです。金持ちのユダヤ家庭の出身ですから、シューピン自身は、生涯、落剥したことなどなかったでしょうが、今となっては、現代のドイツ語文化圏で、もはやだれも読まない作家です。日本では、鴎外大先生が訳したことにより、「埋木」についての論文もときたま大学紀要などに載ります。
 それにしても、鴎外が、なぜrateを「落剥芸術家」などにせず、「ラテエ」と外来語のままカタカナ語として訳したのか、わかりません。

p236「駒光(くこう)なんぞ駛(は)するが如きや
 永井荷風の「書かでもの記」からの引用。

 『書かでもの記』は、
 「身をせめて深く懺悔(ざんげ)するといふにもあらず、唯臆面(おくめん)もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称(とな)へて文を売り酒沽(か)ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地(つきじ)へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり
と、始まります。その文語文の「四」に「駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」の一文があります。
 「秋暑(しゅうしょ)の一日(いちにち)物かくことも苦しければ身のまはりの手箱用箪笥の抽斗(ひきだし)なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや

 上田敏が書いた手紙を見つけた、という内容です。
 山本は文語文「先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」と、その現代書き言葉訳、口語文「先生が亡くなって三年たった。今年の命日もまたすぎた。月日のたつのは何と早いことだろう」を並べてみせ、文語文の「日本語の美」が勝っている、と結論しています。 
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明治の語彙について、再録を続けます。
<つづく>
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