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ぽかぽか春庭「越境者たち in 目黒美術館」

2020-06-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200602
ぽかぽか春庭アート散歩>2020春のアート巡り(1)越境者たち in目黒美術館

 緊急事態宣言が出され、東京は5月下旬まで自粛生活が続きました。
 都知事の要請に従って、国立都立が早々と休館を決め、区立や私立の美術館も休館となりました。
 映画館や動物園水族館など、ほかの娯楽施設も閉館。私が休日に時間を過ごすところがなくなってしまいました。
 博物館や美術館など、空調がよく換気が十分であり、人と人が密着して話をするというわけではない場所は、消毒や入場人数など感染に気をつければ、そうそうクラスター発生という場所でもないと思うのですが。 
 5月14日に、感染拡大が収まってきた県に緊急事態宣言は解除・緩和がだされ、次いで全国の緊急事態宣言が解除。しかし、東京都はまだまだ感染収束なった、とは言えません。
 人々が安心して買い物もお出かけもできるようになるには、もうちょっとです。

 都内の感染者数がまだ一桁台だった3月18日、娘と目黒川沿線を歩くことにして、途中目黒美術館に寄る、という散歩コースに出かけました。今思えば、緊急事態宣言が出されたあとほどの「外出自粛」も声高ではなく、外気の中を他者と離れて歩くのはよい、という雰囲気でしたから、わりあいにのんびりとした気持ちで歩いていたのでした。

 それほど絵の鑑賞が好きではない娘は、「母、先に行ってゆっくり見ていて。あとから行って合流するから」と言うので、先に美術館に入館。自館所蔵作品展なので、65歳以上550円。全作品の写真撮影OKでした。観覧者は、どの室も一人か二人。私一人で一室独占の時間もありました。

 「越境者たち」展。同時開催「山下新太郎のファミリーポートレート」


 山下新太郎(1881-1966)は、二科会や一水会創立メンバーの洋画家。
 私は、ブリジストン美術館(現アーティザン美術館)で「読書」を見たほかは、あまり山下作品に親しんでいません。

 アーティザン美術館所蔵の「読書」の下書きかと思われる絵も出展されていました。


 
 2018年に山下の三女渡邊峯子が、保有していた峯子像などを目黒区美術館に寄贈。今回の山下新太郎展となりました。
 山下の妻ヨハナを描いた小さなコンテ画のほか、人物像はすべて峯子像。ほかに、バラやシクラメンを描いた花の絵。

 峯子3歳のころ(画像借り物)


 ファミリーポートレートというタイトルがついており、家族写真が数点展示されていました。妻ヨハナ(誉花)の母であるドイツ生まれの山崎ラウラもいっしょに撮影されているファミリー写真、また晩年の新太郎と誉花のツーショットなど、山下が家族の愛に恵まれた人だったことがわかります。
 
 長女百合子が10歳で病死した翌年に三女峯子が生まれたため、新太郎は峯子を大切に育て、峯子をモデルにしたポートレートを数多く描きました。
 ルノワールに影響を受けたという暖かい色彩で、家族や花を描いた山下新太郎。

 編み物をする峯子(画像借りもの)


 よい絵が出展されていましたが、私ときたら、いまひとつ山下新太郎に興味がわきませんでした。それは、彼が恵まれた家に育ち、思いのままに絵を学び留学もして、終生愛し合った妻とかわいい子供もいる。晩年には名誉も金も得て、長女が10歳で亡くなったほかは、ほんとうに幸せな画家人生を送った人だから。
 芸術家は「家庭の幸福」なんぞは望まずして芸術ひとすじに生きるほうがいい、という私の思い込みからは遠い「幸福人」だからかもしれない。

 画家や小説家が幸福な人生をおくったっていいんだけれど、私は「家庭の幸福」から遠い芸術家のほうが好きみたい。
 すぐれた芸術の才能と、家庭の幸福の両方を得るなんて「ズルい!」というねたみひがみそねみやっかみの感情からでしょう。

 目黒駅に戻り、昼ご飯を食べてから娘と合流。もう一度目黒区美術館へ。
 「母、もう全部見たんでしょ。2度目に見て楽しいの?」と娘は聞く。娘は「ディズニークラシックコンサート」の同じ曲を何度も聞きに行く。私は2度目になると娘のようには曲を楽しめなくて、居眠りして娘に叱られてしまったこともあったけれど、絵は何度見てもよい。



 「越境者たち」
 第1章。川村清雄と諏訪直樹
 
 川村清雄(1852-1934)は、明治期洋画の先駆者のひとり。徳川宗家16代の家達の学友に選ばれ、20歳になると徳川家より派遣され欧州留学を果たす。帰国後は勝海舟らの庇護を得て、洋画に和風の画題を融合させる作品を残しました。
 しかし、黒田清隆をトップとする薩摩藩系の画家が主流を占めていた明治洋画壇で、川村清雄は半ば「忘れられていた洋画家」になっていたのです。川村再評価が始まったのは、生誕150年を過ぎてから。
 私は、東京国立博物館近代絵画室で「形見の直垂(虫干し)」という絵以外に、川村作品を見た記憶がありませんでした。「形見」とは、勝海舟の遺品、ということです。

 前述のように明治洋画壇で不遇をかこっていたこともある川村なので、画材購入もままならない時期があり、川村は鍋の木蓋などにまで絵を描いた、と解説パネルに書いてありました。

 まな板に描いたと思った絵「梅に雀」
 下から覗くと、まな板の足が見えました。


 諏訪直樹(1954-1990)は、三重県生まれの洋画家。画業のほかに、カヌーを趣味としていました。1990年、諏訪は荒天の中に出艇して、水難死。

 諏訪直樹「無限連鎖する絵画」


 諏訪直樹「PH8-8419」私「PH9-8510」


 「日本の洋画」という範疇からの越境。ふたりの越境者川村清雄と諏訪直樹は、どのような境をどのように超えていったのだろう。 
 諏訪は小さなカヌーで荒波の中に漕ぎ出していったが、急な流れや大波、川に潜む石を乗り越えることはできず、遭難死。痛ましいことですが、諏訪が残した絵を眺めていると、彼が超えていきたかった岩の先でどんな絵を描いたであろうか、見てみたかった気がします。
 没後30年の記念回顧展が三重県立美術館で開催される予定でしたが、現在はコロナ感染防止で休館中。

 越境者第2章 パンリアルの挑戦
 娘の感想「現代絵画はわからない。具象がいい」

 「よくわからないけど、写真撮っておこう」と撮影中の娘。

 
 青い鳥さんに送る絵はがきは、↓の作品のはがきを買いました。
 川村清雄「鸚鵡」


 中目黒タワマン下の中華屋さんで飲茶ティータイム。美人なんとか茶という台湾のお茶とシュウマイなどを食べて一休み。当然、私は生ビール。桜の下で宴会はできないけれど、歩いたあとでビール、というのもいいお花見です。
 桜には早かったものの、娘が美術館に寄ったのは久しぶりのことなので、有意義な散歩になりました。

 5月末で美術館博物館の閉館が終了し、順次開館していくようです。さあ、見にいこうっと。

<つづく>
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