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ぽかぽか春庭「至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみその2」

2014-03-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/03/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(3)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみその2

 歌ものがたり「至誠のカトレア」
 第二部の曲目は。♫二人でいれば ♫女女女 ♫モンデュー神様 ♫愛の詩 ♫校歌 ♫マイウエイ ♫生きる

 病気がちだった吉岡荒太の手助けをして至誠学院の運営をする一方で、彌生は飯田町に「東京至誠医院」を開業。
 病気を抱えた荒太は治療を優先して学院を閉鎖し、彌生の病院を支えることになりました。

 彌生が学んだ済生学舎が女性の入学を中止したことを憂えて、彌生は至誠病院の中に、女性が医学を学ぶための「東京女医学校」を設立。1900(明治33)年のことでした。

 医学校を専門学校に昇格させるために、彌生は官僚との対外的な折衝をこなし、病身の荒太は学校内部の運営にあたる、という分業でした。男が前面に出て女が奥を守るという従来の役割分担だったらもっとスムースにことが運んだのかもしれませんが、夫妻には「女が前面にでてはいけない」という考え方はありませんでした。

 しかし、現実の折衝では「女だから」と、お役人たちに軽くあしらわれることが続きました。彌生はそんな世間の目にもたじろがず、辛抱強く交渉を続け、ついに1912(明治45)年、東京女医学校は、東京女子医学専門学校(東京女子医専)となりました。

 ゆみさんは、ファムファムファムと、♫女女女という歌を歌っていました。女を揶揄する男たちの声をさらりと受け流して、前にすすむ彌生を表現していました。
 「女だから」と言われて苦労したことがある人には、そうそう、男社会に切り込んでいくのは並大抵のことじゃなかったのよね、と頷けるのでした。 

 女医専は年ごとに医師開業試験合格者を出し発展していきましたが、ともに苦労してきた夫荒太は病状が悪化して、1922(大正11)年、55歳で死去。
 ゆみさんは、愛する人を失った悲しみを♫モンデュー神様、という曲に託して歌いました。愛する人にひと時でもいいから命を与えてください、と願う歌、せつせつと心に染みました。

 荒太の死、1923年の東京大震災による校舎への打撃など数々の試練を乗り越えた彌生でしたが、昭和の長い戦争の時代になると、傷病兵への看護をはじめ、「銃後の女性」の役割を果たすことになります。
 婦人国策委員第一号、愛国婦人会評議員などの華々しい活動。しかしその「銃後の活動」は、戦後になると「戦争協力者」のレッテルとなり、公職追放という重い処分が与えられました。

 彌生が公的な仕事に復活するのはGHQよる占領が終わって、日本が独立して以後になります。
 1952年、女子医学専門学校は念願の新制大学となり、今日まで女医や看護師の養成、大学病院での医療、研究を続けてきました。
 ゆみさんは女子医科大学の校歌を歌い、彌生の歩んできた道を振り返って♫マイウェイを歌いました。

 2月6日の舞台とは違う時の歌声ですが、水織ゆみ歌唱のマイウエイ
https://www.youtube.com/watch?v=WwV86C_1h34

 吉岡彌生伝「至誠のカトレア」最後の曲は♫生きる
 ゆみさんの歌うシャンソンは、ほとんどご自身の訳詩で歌うので、一般的に歌われている「生きる-最後の意思」とは歌詞がちがったように思いましたが、おおよその内容は、「自由にやりたいことをやり遂げてきた人生。後悔などなにひとつない。たとえ、家が無くても、くつ一足さえなくても、生き抜いていく。それが最後の意思。生きる、生きる、生きる、、、、Vivre, vivre, vivre, vivre、、、、、
 そんな内容の歌詞です。88年間をせいいっぱい生き抜いた吉岡彌生の人生を締めくくるのにふさわしい選曲だったと思います。

 吉岡彌生の生涯を歌い納めて、あとはお楽しみのアンコール。華やかな衣装に着替えてのアンコールも堪能して、 終演後、ロビーに出てきたゆみさんといっしょに写真をとってもらいました。

                終演後のロビーで
ファンと握手しているゆみさん

 おさげ髪の少女のときも、華やかなドレスに着替えたアンコールのときも、ゆみさんはひときわ輝き、すてきでした。 
 ゆみさん、すばらしい舞台をありがとうございました。
 
<つづく>
コメント (3)
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