阪神の監督交代時のドタバタは球団創設時代には既に巻き起こっていた由緒正しき伝統であって
任期満了を待たずにシーズン途中に監督交代する事も多々有りました。
【創設直後:森→石本】 初代監督から短命だった。チーム創設に伴い誰を監督に据えるかで本社幹部間で二転三転。最後に白羽の
矢が立ったのが松山商業を率いて全国制覇を果たした森茂雄。7月のトーナメント大会で初優勝を果たしたが同業の商売敵の阪急に
勝てないという理由で元広陵高・石本秀一を総監督に招くと本社側が突然の発表。寝耳に水の森監督は退団に追い込まれた。
【昭和30年:岸→藤村】 昭和25年の2リーグ分裂で痛手を受けた翌年に阪神再建のために復帰した松木謙治郎が監督を退く事に。
後任には藤村冨美男が昇格するものと誰もが思っていたが、球団はそれまでプロ野球界とは無縁の岸一郎を就任させた。 満鉄の
エースだったと言っても知る人も少なく求心力も無くチームの統制が取れずベンチ内は四分五裂。開幕して1ヶ月半の5月21日には
辞任し藤村が昇格し代理監督に。岸監督の成績は16勝17敗だった。
【昭和36年:金田→藤本】 昭和31・32年が藤村、33・34年が田中義雄の後に就任したのが金田正泰。1年目こそ善戦したものの
昭和36年は開幕から低迷し6月5日時点で13勝24敗2分の最下位。東京への遠征先の宿舎でヘッドコーチの藤本定義に電撃交代
【昭和41年:杉下→藤本】 昭和36年6月に就任以降の藤本は2度のリーグ優勝をするなど安泰だったが投手コーチだった杉下茂に
監督の座を禅譲し自らは背広の総監督としてバックアップするとして身を引いた。だが杉下は専門の投手起用で失敗が続きトップの
巨人に15ゲームも離された8月に辞意を表明し、8月13日から再び藤本が指揮をとった。
【昭和47年:村山→金田】 監督交代でゴタゴタが多い阪神でも特異なケース。藤本は昭和43年で退団、44年は後藤次男、45年から村山実。開幕して8試合・2勝6敗となったところで村山は指揮権返上を申し出た。監督は村山のままで実質的な指揮は金田がとるという変則スタイルを確立。一時は首位に立って話題を呼んだが当然のように村山と金田の対立が表面化し優勝を逃した。閉幕すると村山は現役引退を表明し同時に監督も辞し退団した。後任監督には金田正泰が昇格した。
【昭和55年:ブレイザー→中西】 記憶に新しい去年のゴタゴタ。岡田の起用方法とヒルトンの処遇を巡りファンが反発、ファンの声を無視できなくなった球団が現場の采配に介入、更にブレイザーの要望に反する新外人獲得を進めた事で両者の対立は決定的になりブレイザーは辞任。後任には中西ヘッドコーチが昇格。
後に中西監督も江本投手の「ベンチがアホ…」発言もあって球団を去る事になります。その後も村山、中村勝広、藤田平がシーズン途中で辞任に追い込まれるなど、伝統は脈々と受け継がれました。
任期満了を待たずにシーズン途中に監督交代する事も多々有りました。
【創設直後:森→石本】 初代監督から短命だった。チーム創設に伴い誰を監督に据えるかで本社幹部間で二転三転。最後に白羽の
矢が立ったのが松山商業を率いて全国制覇を果たした森茂雄。7月のトーナメント大会で初優勝を果たしたが同業の商売敵の阪急に
勝てないという理由で元広陵高・石本秀一を総監督に招くと本社側が突然の発表。寝耳に水の森監督は退団に追い込まれた。
【昭和30年:岸→藤村】 昭和25年の2リーグ分裂で痛手を受けた翌年に阪神再建のために復帰した松木謙治郎が監督を退く事に。
後任には藤村冨美男が昇格するものと誰もが思っていたが、球団はそれまでプロ野球界とは無縁の岸一郎を就任させた。 満鉄の
エースだったと言っても知る人も少なく求心力も無くチームの統制が取れずベンチ内は四分五裂。開幕して1ヶ月半の5月21日には
辞任し藤村が昇格し代理監督に。岸監督の成績は16勝17敗だった。
【昭和36年:金田→藤本】 昭和31・32年が藤村、33・34年が田中義雄の後に就任したのが金田正泰。1年目こそ善戦したものの
昭和36年は開幕から低迷し6月5日時点で13勝24敗2分の最下位。東京への遠征先の宿舎でヘッドコーチの藤本定義に電撃交代
【昭和41年:杉下→藤本】 昭和36年6月に就任以降の藤本は2度のリーグ優勝をするなど安泰だったが投手コーチだった杉下茂に
監督の座を禅譲し自らは背広の総監督としてバックアップするとして身を引いた。だが杉下は専門の投手起用で失敗が続きトップの
巨人に15ゲームも離された8月に辞意を表明し、8月13日から再び藤本が指揮をとった。
【昭和47年:村山→金田】 監督交代でゴタゴタが多い阪神でも特異なケース。藤本は昭和43年で退団、44年は後藤次男、45年から村山実。開幕して8試合・2勝6敗となったところで村山は指揮権返上を申し出た。監督は村山のままで実質的な指揮は金田がとるという変則スタイルを確立。一時は首位に立って話題を呼んだが当然のように村山と金田の対立が表面化し優勝を逃した。閉幕すると村山は現役引退を表明し同時に監督も辞し退団した。後任監督には金田正泰が昇格した。
【昭和55年:ブレイザー→中西】 記憶に新しい去年のゴタゴタ。岡田の起用方法とヒルトンの処遇を巡りファンが反発、ファンの声を無視できなくなった球団が現場の采配に介入、更にブレイザーの要望に反する新外人獲得を進めた事で両者の対立は決定的になりブレイザーは辞任。後任には中西ヘッドコーチが昇格。
後に中西監督も江本投手の「ベンチがアホ…」発言もあって球団を去る事になります。その後も村山、中村勝広、藤田平がシーズン途中で辞任に追い込まれるなど、伝統は脈々と受け継がれました。
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