昭和11年、東のジャイアンツに対抗する形で同時に西にタイガースが誕生。しかし優勝回数は巨人の30回に対し阪神は6回と大きく差をつけられている。その差は単に戦力の違いという以上に球団の体質が関係していると思われる。今回の江本投手の舌禍事件も突き詰めれば阪神という球団体質が起因している。余波は若菜捕手の退団騒動や中西監督の管理能力が問われるなど収まる気配はない。
現在のプロ野球界の形態にも大きな影響を与えた2リーグ分裂にも阪神が深く関っている。昭和24年8月、毎日新聞社が日本野球連盟に加盟を非公式ながら申し入れた。これをきっかけに近鉄、西日本新聞社、大洋漁業…などが次々と加盟に名乗りをあげた。当時は8球団中賛成は阪神・南海・阪急・大映・東急、反対は巨人・中日・大陽と5対3で賛成派が多かった。ところが何故か阪神が反対派に転じて賛成・反対が同数となり、これを契機に日本野球連盟は分裂し2リーグ体制へと展開して行く事になる。
なぜ阪神は転向したのか?『ベースボール・ニュース(昭和24年11月15日号)』はこう伝えている。「毎日新聞社加入賛成派に阪神が同調すると宿命のライバル阪急は勿論、やがては難波に球場を持つ南海とも手を握り合わなければならない運命となる。もしも反対派に属せば関西における試合は甲子園で独占できると考えるのは計算高い大阪商人としては当然の策ではないか。…<中略>…人気のある巨人と同じリーグにあって巨人戦を甲子園で独占し得ることは、将来の大阪スタジアムでの天下分け目の南海対毎日戦が実現するまで関西での人気をさらう事が必至と読んだのだろう」と。
この読みはピタリと当たり阪神-巨人戦は現在でも球界きっての人気カードとなっている。ただし巨人と手を組んだ阪神から6人もの選手が新球団の毎日へ去ってしまったのは一枚岩とは言い難い阪神らしい。毎日入りしたのは監督兼投手・若林忠志(15勝14敗)、正捕手・土井垣武(3割2分8厘 16本塁打)、正外野手・別当薫(3割2分2厘 39本塁打)、本堂保次(3割0分2厘 4本塁打)、大館勲(2割1分3厘 0本塁打)、呉昌征(2割2分3厘 0本塁打)。主力が抜けて骨抜きになった阪神はチーム打率が1分3厘下がり新リーグ8チーム中で4位だったが既成の古参球団の中では最下位であった。
日本のプロ野球史上、試合を途中で放棄して没収試合と宣告されたケースが4例あるが、うち2つが阪神である。昭和29年7月25日、大阪球場での阪神-中日戦の10回裏、阪神・真田のカウント2-2からの次球は前には飛ばず捕手のミットへ。直接捕球したから三振だと主張する中日に対し、一度落としているからファールだと言う阪神。三振とコールした主審に松木監督と藤村助監督が体当たりして退場処分に。試合が再開されると退場したはずの藤村が打席に立とうとした事で再び紛糾し、長い抗議にシビレを切らした観衆がグラウンドへ流れ込むなどして大混乱に。審判団は主催球団阪神の秩序維持不能という事で没収試合を宣告した。
二度目は昭和42年9月23日、甲子園での大洋戦の1回表大洋は3点を先取した後、二死満塁で森中がショートバウンドを空振りした。これを阪神・和田捕手が森中にタッチせずに球をマウンド方向へ転がしベンチへ引き揚げた。森中は一塁へ走り三塁走者はホームイン。和田捕手は「主審はストライクアウトと言った」と主張したが主審は「スリーストライクとは言ったがアウトとは言っていない」と阪神の抗議を認めなかった。ルール上は振り逃げ&得点で正しい。しかし阪神・藤本監督は「審判よりも選手を信じる」として試合開始早々に試合放棄をしてしまった。
他の3つの放棄試合はいずれも試合の終盤であったのに対し、序盤それも1回表で試合放棄したのは異例と言える。入場料を返却すれば済むという話ではない。ナイター観戦の予定を立てて選手を見るのを楽しみに球場まで足を運んでくれたファンの事を考えれば簡単に試合放棄など出来るはずがない。それをしてしまう阪神という球団としての考え方の甘さを窺い知ることが出来る。これが監督人事ともなると、さらに淡々と決断して監督のクビを球団創設1年目のシーズン途中でもアッサリと切ってしまう。初代監督の森茂雄は…
~以下、略~
監督交代劇に関しては 2011年11月の『毎度お馴染み・阪神お家騒動 ② 』 を参照して下さい
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