週刊ベースボール創刊号の表紙を飾ったのが長嶋茂雄と広岡達朗。もちろん2人がプロ野球を代表する「顔」だったからである。その後の2人の歩みはまた週刊ベースボールの歩みでもあった。本誌に掲載された二人の言葉で再構築した " 長嶋&広岡 " 物語である。
週刊ベースボールの創刊号は大物ルーキー・長嶋に対する空前絶後の期待度を垣間見せている。僅か60ページ程の小雑誌のうち8ページを長嶋一人に割いていた。現在の約130ページだと17~18ページに相当する扱い量だ。その長嶋の本誌における第一声は「学生野球の時は下手なりに夢中でやっていました。下手は下手なりに面白かったのですが、今の心境はレベルの高いプロ野球の奥深さを早く知りたいです」と語った。周囲の大騒ぎは巨人の先輩連中の耳にも入っていた。たかが学生野球の一選手が入るだけで直ぐにでも優勝出来るかのような喧騒に苦々しく思っていた選手もいた筈。しかし「紳士たれ」と教え込まれていた先輩たちは決して不満を外部に漏らす事はなかったが唯一の例外が広岡で、昭和33年4月16日号で「長嶋が入ってどう変わりますか?と聞かれるのが一番困る。1年経ってからなら判断出来るけど今聞かれても答えようがない」・・・誠に広岡らしい正論だが、チクリと一言多いのも今と変わらない。この潔癖なまでの一貫性が広岡の身上だ。
広岡が初めて単独で表紙を飾った昭和33年6月18日号では「チームの捨て石になる事に抵抗はない。打率を良くするだけが昇給の対象となる現状はいかがなものか。勝つ為には打撃が全てではないと思う」など常に自己とチームと言う命題を考え続けた選手だったのとは対照的に長嶋は昭和33年4月30日号で立教大時代の同級生・杉浦(南海)との対談で開幕戦で金田投手に4三振を喰らった時の心境を問われ「別にアレじゃなかったけど…悔しいとか、そんな気持ちではなく…次に対戦する時に打てばチャラで、要は打てばオールOKで幾つ三振しようがどうって事はなかったですね」 まぁ見事な " 長嶋語 " が早くも披露されていた。長嶋が新人ながら二冠王に輝いた年のオフにセントルイス・カージナルスが来日し親善試合が行われ広岡と長嶋は共に本塁打を放つなど活躍した。2人の大リーグに対する印象も「とにかくお客さんに楽しんでもらうという野球に徹していますね(長嶋)」「どんな選手でも基本に忠実。命令通りにきちんとプレーする点は見習うべき(広岡)」とまたもや異なった。あくまでも長嶋的であり、広岡的なのは変わらない。
長嶋の入団2年目以降のスポーツジャーナリズムは長嶋一色になる。昭和34年7月29日号で桑田(大洋)との対談の中で村山(阪神)から放った天覧試合サヨナラ本塁打について「打った瞬間ファールになると思ったけど入っちゃった」と語っている。村山が「あれはファールだ」と言い続けているのもこの辺に理由があるのか?一方の広岡は長嶋の入団前から打撃不振に陥り試行錯誤を繰り返していた。プロ入り1年目こそ3割を超える打率を残したが2年目以降は2割5分前後と伸び悩み打撃改造に取り組んだが周囲は改造に懐疑的だった。昭和36年5月1日号では「日本の野球しか見ていない人があの打法を批判するのはおかしい。僕はベロビーチキャンプで大リーガーを目の当たりにしてあの打法が一番理にかなっていると思った」と反発した。「あの打法」とはダウンスイングだ。ダウンスイングと言えば " 荒川コーチと王 " が思い浮かぶが巨人で最初の、そして最も熱心な実践者だったのが意外にも広岡だった。
しかし広岡の起死回生のダウンスイングも成績向上には結びつかず、この年は打率.203 と低迷から抜け出す事は出来ず長嶋との差は開く一方だった。長嶋は入団2年目に首位打者に輝きプロ2年目にして早くも打撃主要三部門のタイトルを全て手にした。3年連続の首位打者と二度目の本塁打王獲得で2人の打者としての勝負は着き、広岡が本誌の表紙を飾る機会は大幅に減った。そんな広岡が誌面を賑わしたのが昭和39年のトレード騒ぎ。川上監督、正力オーナー、更には正力松太郎讀賣新聞社主まで巻き込む大騒動となった。「僕は巨人を誰よりも愛している(昭和39年11月30日号)」「巨人以外のユニフォームを着る気はない(昭和39年12月14日号)」とトレードを拒否し事態は混乱したが正力社主の鶴の一声で残留が決まった。しかし広岡の巨人への未練はこの騒動を機に絶たれる事となる。川上監督との確執は続き2年後に現役を引退する。その時の広岡は「僕の野球人生は事実上2年前に終わっていた(昭和41年11月14日号)」と語っている。
2年前のトレード騒動には伏線があった。今でも語り草となっている「ホームスチール事件」だ。昭和39年8月6日の国鉄戦、三塁走者だった長嶋はホームスチールを敢行したが結果はアウト。打席にいた広岡はバットを放り投げてロッカールームに消えてしまった。口にこそ出さなかったが「川上監督はそれ程俺を信用していないのか」の抗議行動だったのは明白だ。この時の広岡の談話は本誌には載っていないが長嶋の「広岡さんには悪い事をしてしまったが、あの場面でどうしても点を取りたいという気持ちを抑えられなかった(昭和39年8月24日号)」とのコメントは残っている。引退した広岡は見聞を広める為、単身米国へ向かった。渡米に際して『だから私は米国へ行く』と題する手記を昭和42年3月6日号に寄せている。片や長嶋は選手生活のピークを迎えていた。本塁打数こそ同僚の王に敵わなかったがチャンスに強い打撃は王を凌ぐ人気を得て球界で確固たる地位を築いていた。その長嶋にも肉体的衰えは着実に忍び寄って来る。昭和42年からは打撃コーチ兼任となり「川上の次は長嶋」とい声が周囲から漏れ伝わるようになる。そのあたりを当の長嶋は昭和42年11月11日号で「考えてみた事もない。少なくともあと5年は出来ると思っている」と一蹴している。
米国から帰国した広岡は根本睦男監督に請われて昭和45年に広島のコーチに就任した。年俸1千万円は広島のコーチとしては破格なものだった。1月28日の自主トレに現れた広岡の第一声は「お粗末なグローブばかり。全く手入れもせずプロとしての自覚が感じられない」表現はキツイが指導者として生きていく覚悟が読み取れる。広島でのコーチ業を2年で終え長嶋が引退し川上監督の後を継いだ同じ年にヤクルトのコーチに就任し2人は今度は指導者として再び同じ土俵に立つ事となる。最下位、優勝、江川騒動、そしてあの解任劇と長嶋の監督としての6年間はドラマチックと言うよりドラスティック(強烈)だった。特に江川騒動は長嶋を苦しめた。小林とのトレードが決まるまで長嶋は「その件については勘弁して下さい」と沈黙を続けた。この問題は監督がどうこう口を挟めるレベルを越えていた。小林というエース級投手を失って勝てと言うのが無理な話で長嶋は優勝を逃し続けて昭和55年10月21日に解任された。広岡はコーチから監督に昇格し昭和53年にヤクルトをセ・リーグ初優勝&日本一にするも翌年にはコーチの人事を巡り、松園オーナーと衝突してシーズン途中で事実上解任された。
奇しくも2人仲良く浪人生活を送る事となったが先に監督に復帰したのは広岡だった。実は浪人中の広岡は長嶋がまだ巨人の監督をしていた頃に「長嶋の下で二軍監督をしてもいい」と漏らした事があった。広岡の心の中にはやや屈折はしているが共に同じ時代を生きてきたという長嶋に対する連帯意識のようなものがあるのかもしれない。事実、広岡は長嶋監督時代の巨人を批判する事はなかった。そして長嶋が解任され巨人から追われると巨人批判を連発するようになる。「巨人は球界全体をレベルアップする姿勢に欠けている。西武こそが球界のリーダーとなり他球団の目標となっていかねばならない(昭和57年2月1日号)」…その姿勢は西武を日本一に導いた後も変わっていない。